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改めて『菊の剣』について

しばらくぶりの更新となりましたこちらのnote。作業が立て込むとつい後回しになってしまい申し訳ない限りですが、今回はようやくの新刊ということで、しっかりご案内したいと思います。

すでに告知があったとおり、12月20日に新刊『菊の剣』が刊行されることとなりました。『あるじなしとて』以来、およそ2年半ぶりの新刊ですから、感慨もひとしおです。

さて。本作は、後鳥羽上皇と、彼が召したと伝わる御番鍛冶たちを描いた連作短編小説となっております。

昨今の刀剣ブームで、日本刀や刀鍛冶に関する創作は増えていますし、名物に関する逸話や伝説もよく知られるようになっていますね。

ただ、この御番鍛冶と呼ばれる鍛冶たち自身については、記録がほぼないこと、のちの刀剣書などで創作された部分が人口に膾炙したことなどから、実像はよくわかっていません。

例えば、最古の刀剣書といわれる『銘尽 めいづくし』では、各流派の系統図が載せられていますが、親子といった関係性は一部を除き分からないものとなっています。

これが、少し時代を下った刀剣書になると親子関係などが追記されていきます。が、書物ごとに食い違いがあること、それを裏付ける資料などとないことなど、正確さはなかなか、といったところ。

こうした状況があって、特に鎌倉初期の刀工自身の逸話は少なく、むしろ彼らが鍛え上げた刀剣そのもの、あるいは後世の持ち主の逸話が語られることが多いのかなと。
逆に言えば、彼ら自身についてはフィクションの余地が大きいとも言えるわけです。

御番鍛冶という制度自体も、同時代の資料に類する記述はなく、史実とは言い難いのが実際のようです。
個人的には、江戸時代に流行する「変わり番付」(温泉とか武将とかを相撲の番付に見立ててランキングしたもの)のように、名工と言われる人たちを一覧にしたのかなと。

とは言え。
後鳥羽上皇が刀剣を愛顧したこと、実際に隠御所などに刀工を召して鍛冶をさせたこと、刀工に官職を与えて優遇したことは事実のようです。
それが下敷きとなって、御番鍛冶の伝承が生まれたのでしょう。

そしてまた、後鳥羽院が三種の神器の剣を失った天皇であったという事実が、院が刀剣にこだわる貴人というナラティブに説得力を持たせたのでしょう。

さて、少し長くなりましたが。
私もまたそういったところから、もし本当に御番鍛冶が行われていたら……と、鎌倉初期の名工たちと後鳥羽院とが織り成す物語を作り上げていった次第です。

そして最後に。
歴史コミュニティ紙「わいわい歴史通信」をお読みの皆さんはご存知の通り、本作は同紙に寄せたショートショートをもとに、さらに深く掘り下げた作品でもあります。
なかでも、見つめ直したのが後鳥羽院なのですが……。
このあたりはまた、つぎの機会に。

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