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【サンプル公開】『菊の剣』第一回・備前国則宗

まずは、拙作ご紹介からさせていただければ。

受賞第一作、飛鳥時代初期を舞台に日本の国家としての黎明期を描いた『和らぎの国 小説・推古天皇』(日経BP/日本経済新聞出版本部)。
そして新刊、国政改革を志した政治家・菅原道真を題材とした『あるじなしとて』(PHP研究所)。
それぞれ好評発売中です。

参院選挙の時期ですが、両作品ともに為政者のお話でもありますので、政治とは何か、と考えるきっかけになればなと思ったりもしています。
ご興味いただければ幸いです。

デビューして1年半ほどが経とうとしていますが、ありがたいことに、物書きとして少しずつの仕事をいただくようになっています。
講演しかり、歴史読み物しかり、コラムしかり。

さて、そんななか「歴史を楽しむ会」グループさま発行、恐らく世界で唯一(?)の歴史業界新聞『わいわい歴史通信』にて、ショート連載をさせていただいております。

題して『菊の剣』。

後鳥羽院が水無瀬殿に刀鍛冶を招聘し、月番で刀剣を打たせたという「御番鍛冶」。じつはこの仕組み、確たる資料はなくエビデンスのある史実とは言いにくいものです。
ですが、院が各地の刀鍛冶に官職を与えたこと、何らかの形で宮中鍛冶を奨励し、「菊造り」あるいは後世「菊御作」などと呼ばれる刀剣が打たれたのは確かなようで。

御番鍛冶に数えられる刀工たちも、後世で名匠と呼ばれる者たちばかり。
そんな彼らの目を通して、朝廷と武家政権の逆転が起きた承久の乱――その当事者となった後鳥羽上皇を描いていく予定です。

そして今回、『わいわい歴史通信』さんのご厚意により、連載第1回をサンプル掲載できることとなりました。
作品の雰囲気が伝われば幸いです。

そしてよろしければ、本紙ご購読もぜひご検討ください。

ではでは、以下より作品をどうぞ。


『菊の剣』・第1回「備前国則宗」


「宝剣とはどのようなものと思う、則宗」

 造込みを終えた刀身に焼刃土を置きながら、青年はそう尋ねた。

「三種の神器よ。どう思う」

 重ねての問いを聞きながら、則宗はわずかに青年の顔を見る。火床からこぼれた炎の色が、その白い顔を朱に染めていた。

「鍛冶は皆、心中に己の宝剣を携えております。わたくしの宝剣と、院の宝剣は、自ずとちがいましょう」

「それを確かめたいのだ」

 は……と答えつつも、刀匠・備前国則宗はそれ以上を口にしない。言葉で説明するものではなかったし、仮に伝えたところで、この強硬な上皇には通じないにちがいなかった。

 後世、後鳥羽院と呼ばれる方である。齢二十九。やや丸い顔に鍛冶烏帽子を載せ、水干をまとう体躯は武家の者かと思うほどにたくましい。
 覇気にみなぎる目は手もとから離れてはいないが、気が別に向いていることは明白だった。

 承元二年(一ニ〇八)正月。摂津国・水無瀬殿。贅を尽くしたこの御殿の一角に作られた鍛冶小屋で、則宗は院自身と相対していた。

 ――文武の芸に旺盛な意欲を見せる院が、備前・備中・山城の刀鍛冶にその命を下したのは一年前のことである。三国より名手を水無瀬に召し、院の御前で鍛冶を披露させる、刃の焼き入れは院自らがなされる、鍛冶師はひと月ごとの輪番とする云々。

 そうして、輪番鍛冶の筆頭に抜擢された則宗が水無瀬を訪れると、院は初の番鍛冶に事寄せて、手ずから自身の守り刀を打つと言い出したのだった。

「……院の宝剣は」

「まさしく、これよ」

 まるで、自身の代で喪われてしまった、宝剣を取り戻すように。それほどまでに、院は負い目を感じているのだろうか……と則宗は思わざるを得なかった。
 源平の戦のとき、兄君の安徳帝とともに三種の神器のひとつである宝剣が波間に失われたこと、神器が揃わぬまま天皇となったことに。

 そして、“正統たること”“正しきこと”に対する院の強いこだわりも、それに根ざすのだろうか、と。

 ただ、その正しさが院の独善にすぎないことも、則宗は気づいている。
 例えば、この水無瀬殿では誰もが水干を着て過ごすと院は定めた。主客や君臣を越えた交友を求めたゆえだが、差し出口で院の不興を買い処罰された者は後を絶たない。

 それに、守り刀のことも。

「上古、神武帝は宝剣の徳を“正しさを養う”と仰せられた。であれば、強く真っ直ぐな刀であるべきじゃ」

 ただ正しさを押し通すための威力を表すだけの刀剣など、鍛冶にとっては何ほどのものでもない。
 則宗にとっての宝剣とは、鞘の内にあってさえ天下の争乱を鎮める、それほどの徳を示すものだった。

 そのうえ、院が打ち出したのは神代より存した諸刃の剣でなく、今様の片刃の短刀である。

「ただ古様に造るのも面白くなかろう。朕の新義が、後世の先例となるのだ」

 そんな意気を表してか、完成した刀身に咲くのは、焔を思わせる重花丁子乱れの華やかな刃紋。確かに、それは美しいかもしれない。
 が、則宗の目から見れば、打った人間の独善に鉄が歪められた、武張ったばかりの哀れな刀だった。

「よろしければ、銘をお切りになってはいかがでございましょう」

 だから、彼がそう言ったのは、院に対する憐憫に他ならなかった。

「……やはり菊が良い」

 どうかすれば、院はうっとりと言った。

「そなたにも、菊紋を切ることを許そうぞ」

「……勿体なき仰せ」

 ――その勅許により、彼の作刀は後世「菊一文字」と呼ばれることになる。だが、則宗自身が己の刀に菊の銘を切ったことは、ただのいち度もなかった。

(続)

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