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伊東潤先生と対談しました。

日経ビジネス電子版で、小説家・伊東潤先生と私の対談連載がはじまりました。題して「歴史小説家が語り合うニッポンの原型」。
伊東先生の著作である『覇王の神殿 日本を造った男・蘇我馬子』と、拙作『和らぎの国 小説・推古天皇』の舞台となった飛鳥時代初期について、現代とも話題をクロスさせながらお話させていただきました。

第1回はこちらで。

ばっさばっさと豪刀で切り開いていくような伊東先生のお話が面白く、個人的にはとても楽しく、勉強させていただいた時間でした。
単純な話、こちらはデビューしたての素人に毛が生えたようなものなわけですよ。それが著名人の方に直接お会いするわけですよ。そりゃめちゃくちゃ緊張するじゃないですか。実際お会いしてめちゃくちゃ舞い上がってしまうじゃないですか。

そんななかで終始お気遣いいただき、話を引き出していただい伊東先生に、改めて感謝申し上げます。

閑話休題。さて、まずはこちらの書影をご覧ください。

編集さんも言っていたことですが、同じ時代を描いて主要な人物も共通して、これだけちがう印象の本ができるんです。じつは、装画は両作品ともに日本画家の大竹彩名さんが手掛けたものでして、余計にちがいを感じるところですね。

もちろん、この時代は文字資料が少なく、あまり強い定説がないので、想像の余地が大きいといことはあるでしょう。
それ以上に、多様な視点から見ることができる、豊かな時代性があると思っています。そしてそれは現代、現在にも通じるものではないか。

私も伊東先生も共通していたこと、それは「国家」と「外交」です。
飛鳥時代を含む古代の日本のイメージって、それほど確固とした一般的な共通認識はないと思います。大君がいて、豪族がいて。まだ大和朝廷が全国を統治しているわけではなく、かなり素朴な生活をしているような、漠然としたイメージではないでしょうか。

そんな人々のクニが、中国に使節を派遣して、支配を強要されることもなく友好関係を結び、一国として存立していたわけです。

ちょうどタイムリーな記事を見つけたのでご紹介。

国恥地図のことは一旦置いておいて。ここに書かれた中国の「かつての国境」の内側には、長い歴史の中で中国と冊封関係を結んだ国々も含まれています。
一方、大和朝廷の領域は、この時点でも「他国」という認識なんです。朝貢すれども冊は受けない。その認識は、日本と中国で共通していたようです。

でも、ちょっと考えてみてください。
飛鳥時代の中国にはすでに、『孫子』『韓非子』『史記』などなど、政治・外交・軍事・歴史にわたる、現代にさえ通じる理論・手練手管があったわけです。
ということは、当時の日本はそんな国と渡り合って、対等外交を成し遂げていたことになります。そう考えれば、その社会がただ素朴な古代の習俗だけしか持たなかったとは考えられませんよね。
なぜ、当時の人々はそんなことができたのでしょうか。

そのあたりを対談から、またふたつの作品から感じ取っていただければ幸いです。

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