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目に見える世界と目に見えない世界

♠️ 孔子と老子

私は儒教よりも道教の方に興味をそそられます。
それは私が女に生まれたからです。
男ならば社会的地位を獲得しようとしたかもしれません。
しかし、それは男と女の違いではなく、おそらく環境でしょう。
が、その環境でさえ男と女の性によって区分けされていました。
ところが男女平等が謳われ始め、狂ってきました。
それは男女平等というものが既存の環境に影響を与え、
男も女も共に戸惑ったからです。
男は男の世界に入ってくる女を訝しげに見つめ、受容か拒否かの賛否論に分かれ、そういう女性を男まさりだと称し、
また、女も女の世界に男が入ってくることに同じようなことが起こりました。
そしてそういう男を女々しいと称したのです。
ひどい時には「女の腐ったやつ」だなと侮りました。
これは男が男に浴びせた言葉です。
また、女を蔑視する皮肉も込められています。

しかし、こんな時代に自称ゲイだと称する男性が現れました。
その人の名は丸山明宏、現在は美輪明宏という名前になっています。
私は衝撃を受けました。なぜならば私は彼のファンだったからです。
特にあの「ヨイトマケの唄」は夫婦愛を歌ったものであり、
貧しい家庭で育った私にはとても励みになったものです。
また、田舎において母はよくその仕事に駆り出されていました。
・・・・・ちょっと余談でした。

則ち、男は剛・女は軟、男は強者・女は弱者、男は優・女は劣という区分けですね。これが戦後男女平等の法律が生まれるまで続いたのです。
かと申しましてこれが日常の常識にすんなりまかり通るはずはありません。
今も紆余曲折しながら、男性は女性を力で推し負かそうとしています。
まあこれもケース・バイ・ケースではあります。全てではありません。

さて、このような社会で女性が身を守りながら社会に通用するにはどうしたらいいか、でも時代の流れとは面白いものです。「合気道」なる武術が出てきました。昔、女学校では薙刀や弓術は必須科目(選択)だったようです。
私も宮本武蔵に憧れたのもこういう話を耳にしてからでした。

別に男性に対抗するものではなく、あくまでも身を守る手段です。
しかし、時を経て社会を知ってきますと、
男と女の別ではなく、人間同士っていうことに気が付きます。
かといって、性問題は解決しません。
この性に対する問題は男女平等に相応しくまさに対等であるべきです。
男女間のモラルですね。しかし、恋愛に発展してしまいますとこれは別問題であり、当人同士が解決すべきことだと思います。
昔はこの恋愛は許されないものでした。それでも男女の間は「合縁奇縁」です。
さまざまな物語があったようです。この世は男と女だけの世界ですから、
その出来事は日常茶飯事であり、誰にも防ぎようはありません。


要は何が申したいかと申しますと、子が親を思う心と子が親を思う世界には
信頼感がなければならないということです。
その信頼を得るために親子の間でなすべきことがあるということを言いたいのです。その一つに「親しき仲にも礼儀あり」ということでしょうか。
庶民が学問を身につけ始めたのは明治の初旬でようやく100年を超えたところです。
今の義務教育は見直す時期に来ていると思うのです。

では、本日もつつがなくお過ごしくださいませ。
ありがとうございます😊

〈今日の一言〉

私はこの頃、家の父母の良いところ、悪いところが自分の欠陥と比較することによってだんだんはっきりわかって参りました、私はこう思っています、父、母はやはり、父母自身の欠陥を打ち破ろう、自分の人格を高尚にしようとしてこの一生をその闘いに捧げてこられた、しかしどんな人間も自分の欠点を全然征服して死ぬということはできない、だからそれの征服を自分たちの子供に頼んでこの世から去ってゆく、去ってゆくまでに親たちは自分の欠点に対する戦法を自分の会得した範囲において子供に授けてゆく、それがすなわち親の子に対する教育です。 

ー「書簡」梶井基次郎ー

               





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