【SS】黒いリボンをたどって
「やばい、完全に迷った」
俺は思わずそう口にしてしまった。嫌な汗がひと筋、背中を流れていく。
「初心者でも余裕」「トレッキング入門には最適の山」
そんな言葉を安易に信じて登ってきてしまったが、俺は例外だったらしい。
おそらく、どこかで分岐を間違えたのだろう。
そう思って、俺は来た道を引き返そうとした。間違えた場所まで戻ってやり直せば、元の道に戻れるはずだ。
しかし、話はそう簡単ではなかった。
手元の地図ばかりを見ながら歩いてきてしまったので、どこをどう進んだのかが自分でも驚くほどはっきりとしない。
そして、ここは整備された登山道からは外れている。木々の間のちょっとしたスペースや、長く垂れ下がった枝で隠されたその先が「道」に見えてしまうのだ。
俺は大いに焦り、迷い、5歩歩くごとに立ち止まりつつ、少しずつ来た道を引き返した。
そのつもりだった。
しばらく歩いた後、急に木々が大きく開けた先に青々とした泉が現れたとき、俺は心底「やってしまった」と思った。
こんな泉は今日これまでで一度も見たことがない。
つまり、俺はさらに迷ったのだ。
体力も気力も限界に達し、俺は泉のほとりに倒れるように座り込んだ。
ザックを漁り、予備に持ってきていたスポーツドリンクのペットボトルを取り出すと、一気飲みする。
少し落ち着きを取り戻してから見た泉は、とても美しかった。
底まで見えるような澄んだ水で満たされていて、まるで鏡のように周囲の木々を写し込んでいる。
これほど美しい場所なら、探せばどこかに名前や地図が載っているかもしれない。
そう思って、上着のポケットから地図とスマホを取り出そうとしたときだった。
「こんなところで、なにしてるの」
急に子供の声がした。驚いて顔を上げると、小学生くらいの男の子が立っている。
Tシャツにハーフパンツ、サンダル。登山をする格好ではない。
「ボク、この辺の子か? おじさん道に迷っちゃったんだけど、お父さんかお母さん、一緒に来てないかな?」
近所の子か、この辺りで親とキャンプをしている子かもしれない。
俺はそう思って、必死に話しかけた。
すると、男の子はポケットから何かを取り出し、俺に渡した。
黒いリボンだ。
「あっちから帰れるよ。それがついてるところが道だよ」
そう言いながら、男の子は泉の向こう岸を指差した。
見ると、木々の間になだらかな上り坂が見える。
そうだ、山によっては道の目印にリボンがついているというのを聞いたことがある。
「これを辿ればいいんだね?」
振り返ると、すでに男の子の姿はなかった。
音もなく、消えるようにいなくなってしまったので驚いたが、親のところにでも帰ったのだろう。
それよりも、今はこの状況をなんとかしなくては。
俺は勢いよく立ち上がるとザックを背負い直し、泉のほとりを歩き始めた。
そこからは、無我夢中だった。
木の枝に、杭のように打ち込まれた角材に、倒木の前に張られたロープに結び付けられた黒いリボンをたどり、とにかく進み続けた。
もう日も傾こうかというとき、背の高い藪の隙間から、家庭菜園のような小さな畑が見えた。
人だ、人もいる!
俺は最後の力を振り絞ると、その藪をかき分けて畑に飛び込んだ。
「わっ! な、なんだあんた!」
畑にいたのは、ひとりの老人だった。
向こうの警戒心もお構いなしに、俺は山で道に迷ったこと、畑を見て助かったと思って飛び込んだことを一気にまくし立てた。
「はあ、山でねえ……。そりゃあ大変な思いをしたねえ」
老人は俺の話しぶりに圧倒されながらも、頷きながらそう言ってくれた。
しかし、俺の手に視線が移ると、一瞬で表情がこわばった。
「あんた、まさかその黒いヒモをたどって帰ってきたんか?」
そうなんです、と男の子に会ってからの顛末を話すと、老人は困った顔で話した。
「それはな、ヒトのための目印じゃないんだわ」
「え?」
「山には、ヒトや動物じゃないものもいるから、この辺ではそういうのと道を分けることで、生きる場所を分けてんだ。なーんか大学行ってる孫が言ってたな、『動線を分ける』とか、『ゾーニング』? だっちゅうて」
ヒトでも動物でもないものが「いる」って、何だ? ゾーニングしてる?
話がよく飲み込めていない俺に、老人は続けた。
「俺らは子供の頃から ”黒いヒモの道は通るな、通ったら『通行料』を取られる” ってな、きつーく言われてきたんだわ」
「通行料? お金がいるんですか?」
「いや、そこまでは聞かされなかったけどな。まあ、昔っからの迷信みてえなものだから、深く考えることはないだろうけどさ。あんたは無事降りて来られたんだから、平気だろうね」
そう明るく言ってはいるが、老人の顔は明るくはなかった。
山を降りることができた安心感が不安に変わってくる。
「そうだ、こんな時間まで山にいたんだから、警察に一応連絡しておいてやるよ。あんたのことを探してるかもしれねえから。ちょっと待ってな」
老人はそう言うやいなや、畑の向こうに立つ家へと消えていった。
しばらくして、警察官がやってきた。
言われるままに名前を告げ、免許証を見せる。
警察官は手にした紙と、俺の免許証を交互に見ると、怪訝そうな顔で
「あの、お連れの方はどうされました?」
と言った。
「え? 俺は今日ずっとひとりで……」
なぜか、ものすごい動悸がする。
一瞬で冷や汗が噴き出し、ぼたぼたと顔から上着へと垂れていった。
「ご提出いただいた登山届には、あなたともうひとり、同行者がいると書かれています」
”黒いヒモの道は通るな、通ったら『通行料』を取られる”
老人のさっきの言葉が、何度も頭を殴りつけるように響いてきた。
通行料。通行料。通行料。
俺があの道を通れたのは、『通行料』を払ったから。
俺が取られたのは……
「もう一度、お訊ねします。もうひとりの、お連れの方は、どうなさいましたか?」
俺はその場に立っていることが出来ずに、がくり、と膝をついた。
ずっと握りしめていた黒いリボンだと思っていたものが、ぬるり、と手から逃げていった。
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