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人生は楽しいかね?

「私が私が」と主張し続けていくことはある程度の地位や名声を得ることには繋がるかもしれない。

たとえば、同僚がお構いなしに上司にすり寄り、出世をしたとする。
本人は一時的に満足を得られるが、こういったケースは決まって時間経過とともに一種の虚しさが訪れる。
だが、それを紛らわすかのように、昔のその人のように「すり寄ってくる部下」が現れるため、連鎖は止まらなかったりする。

少し違った例を挙げると、キャリアアップを狙って転職を繰り返したり、資格を取りまくるといった「私」の価値を高める行動。
そういった行動は素晴らしく、結果がついてくることもあるかもしれないが、それが、周囲のニーズを無視して自分本位のものになってしまうと虚しさが現れる。
しかし、当の本人はなかなかそれが認められず、「もっと努力すれば」「もっといい場所がある」と錯覚しているので、さらに自分を高めようとしてしまい、周囲から距離を取られるという連鎖が生じることになる。

こういう人達にはある本を真似てこう問いたい。「人生は楽しいかね?」
楽しいならばそれで良いのだろう。
だが、前述の生き方をしている人の大半は底なしの欲求に囚われているため、あまり楽しかったり幸せだったりはしないのではないかと思う。

自分を高めた人が、周囲のニーズを満たすようなモノを作ったりサービスを展開したとき、ものすごいものが生まれるような気がする。
実際、過去に生み出されたビジネスにはこういったものが多くある。
そのため「私が」と気負うことは完全に悪いことではない。
それが周囲の求めるものになっていれば良いのだ。

ただひとつ注意が必要なのは、突き進むエネルギーを持つ人は「周囲がこれを求めている」と錯覚しやすいということ。こればかりは相手がどう思っているかなんて分からないからどうしようもない部分もある。
冷静に状況判断をしたら、あとはただ無心に目の前のことに取り組み結果を待つということがベストなんだろう。
だから、無理にニーズに合わせようとしなくてもいいと思うし、本当に求められていることならば、取り組んでいる貴方を世間は無視することはできないだろう。

あとは言うまでもなく自分が楽しいと思えるかということも大切だ。
仕事はつらいことも多い。だが、はじめの一歩、最初の動機がポジティブなもので、自分が心から求めるものだったならば、様々な困難を乗り越える力になってくれるのではないかと思う。

今回はこのあたりで。
また会いましょう。

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