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フタの暗号【ショートショート997字】

 押ボタン式の信号機を見ると思い出すことがある。それは私がまだ高校生の頃の話だ。

 高校に入学して少しした、新緑のきれいな季節だった。私は電車通学をしていて、家から駅に向かう途中に押ボタン式の小さな横断歩道があった。私の地元は田舎だから、その横断歩道を利用するのは日に20人もいないくらいだろう。私はテニス部に所属していて、その日も朝練のために眠い目をこすりながら信号が変わるのを待っていた。

 すると、小学校高学年くらいの女の子が私の横の黄色い押ボタンに駆け寄ってきた。私がもう押したはずだけれどと思って見ていると、女の子は押ボタンの上に載っていたペットボトルのフタをヒョイとひっくり返した。返した面にファンタのロゴが見えたのを覚えている。

 その日は「変わった子だなぁ」くらいに思っていたのだが、それから何日か後に私がまた信号待ちをしていると、その子と同い年くらいの男の子がその押ボタンに近づき、例のペットボトルのフタをヒョイとひっくり返した。今度はウラ返した形である。

 どうやら女の子がフタをオモテに返し、男の子がウラに返す役割になっているようなのだ。それからそこを通る時に気をつけて見ていると、フタはオモテになったりウラになったりしていた。学校で二人きりで話すのは恥ずかしい年頃だ。小さなカップル同士の暗号なのかもしれない。

 秘密に気づいてわくわくした私に、ふといたずら心が芽生えた。

 ある朝、私は周りを見回して誰もいないことを確認した後、ウラ向きのフタをひっくり返してオモテ向きにしてみた。よく考えると何のことはないのだが、妙にドキドキしたのを覚えている。

 学校の帰りに見ると、フタはウラ向きになっていた。男の子がひっくり返したのだろうか。女の子はびっくりしただろうか。

 私はそれから、気が向いた時に何回かフタをオモテ向きにひっくり返した。

 しかし、ある朝、突如としてそのフタは跡形もなく消えていた。普通に考えれば、ゴミ拾いの人が回収したのかもしれないし、二人が単純に暗号ごっこに飽きたのかもしれない。でも、私はなぜだかふっと、私がきっかけで彼らを仲違いさせてしまったのだと確信した。「私はひっくり返しているのに、あの子はひっくり返してくれない」と女の子に思わせて。

 社会人になった今でも、私は押ボタン式の信号機を見ると胸がチクリと痛む。私が壊してしまったかもしれない、小さな恋を想って。

 

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