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小惑星の夢

 月の記憶を覚えている。

 暗い宇宙を漂うボクの目の前に、突然現れた淡い光。

 焦がれて惹かれて、ボクはその人の虜になった。

 夕日の映える窓辺に座る輪郭も、柔らかな眼差しで活字を追う姿も、貴女の一挙手一投足全てが美しく見えた。ずっと暗い宙を漂ってきたボクにとって、淡い月光ですら見るのに眩しかった。



「こんにちは」

 放課後の図書室。ボクと彼女の二人だけ。どうやって貴女を見つけたのかも分からない。ボクの視線に気づいた貴女は、目を逸らすでも無視するでもなく、穏やかな調子で声をかけてきてくれた。それがボクと貴女との初めての出会い。

 あの時ボクは上手く挨拶を返せただろうか。今となっては、もう覚えていない。話しかけられるとは思っていなかったから、むしろしどろもどろになっていただろう。

 貴女はそんなボクの様子を全く気にするそぶりも見せず、ただ静かに視線を動かした。そのまつ毛の長かったことを覚えている。

 動かされた視線に従って、ボクは彼女の隣に座る。

「何をお借りになったのですか?」

 彼女の声は澄んでいて、それでいて淑やかで、肌触りの良い絹の敷布に身体を滑らせているかのような心地さえした。

 貸し出しの手続きを済ませてきたばかりの本を彼女に見せる。当時ハマっていた、とあるミステリー本の新刊。

 まぁ、と彼女は声を上げた。それから「奇遇ですね」といって、その手に収まっていた本の表紙をボクに見せてくれる。

 ボクは心底驚いた。何故ならそれは全く同じ本だったのだから。


 それから貴女とボクは時々図書室で一緒に過ごすようになった。

 お互いに同じ本を読んで感想を語り合うことも、おすすめの本を紹介しあうこともあった。

 今まで一人寒い暗闇を漂ってきたボクにとって、貴女と過ごすその時間が、どれ程幸せで、穏やかで、温かかったか。


 そう、ボクにとって貴女は、暗い闇夜にぽっかりと浮かんで、優しく道を照らしてくれる満月のような人だったのだ。


 それでも、ボクは知っている。

 それでも、ボクは知っていた。

 月は自ら光っているのではないのだという事を。

 月は自らも照らされて光っているのだという事を。

 ボクにとって貴女は全てだったけれど、貴女にとってボクが全てではなかった。

 貴女がボクにさえ優しく接してくれるのは、貴女にも優しく接してくれる誰かがいたからだ。


 放課後の、夕日の差し込む図書室で、貴女は淡く光っていた。貴女を優しく照らすその人とともに。貴方と語り合った図書室で、貴女は貴女の大事な人と、優しく抱擁を交わしていた。その口と口が次第に近づいていくのを、夕焼けの燃えるような紅あかが、鮮やかなシルエットを描き出していた。



 月の記憶を覚えている。

 それは太陽に照らされた淡い光。

 貴女を照らすその役目を果たすのが、貴女に光を与える存在が、いっそボクであったなら。

 ボクはやっぱり暗闇を漂っていただけに過ぎなくて、偶然その瞬間に通りがかった小さな惑星。

 全てを見届ける傍観者ちきゅうにもなれずに、ただただ闇を滑りぬけていく。

 偶然目にした月の光は、ボクにはとても眩しくて。

 消せない貴女への小さな想いは、闇夜を駆ける小惑星の夢。

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