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小説『夏の恋文』

 その封筒を見つけたのは、先日亡くなった祖母の遺品を整理している時だった。
 生前、祖母が大事そうに押し入れにしまっていた葛籠。綺麗に整頓された箱の中に、その手紙はぽつりとあった。
 祖母は友人が多い人だったから、手紙のやり取りなどもしょっちゅう行っていた。まあ、だからこれがもし普通の便箋だったなら、特に気に留めたりはしなかっただろう。
 ただ、取り分けてこの手紙に興味を惹かれてしまったのは、この一通だけが他とは別によけられていたというのと、封筒には宛先はおろか、差出人の名前すらも書かれていなかったからだった。
 祖母に悪いと思いながら、俺は手紙の中身を読んでしまった。読んでしまって、面食らった。
 それはいつの時代に書かれたものなのだろうか。

 甘酸っぱい程のラブレターだったのだ。

 カタンコトン、と電車の音が鳴る。耳に心地良くて、思わず舟を漕いでしまいそうになるが、慌てて首を振って眠気を追い払う。俺は気晴らしに、祖母へ宛てられてた手紙をもう一度広げてみた。
 ──拝啓、スミレ様
 それは確かに祖母の名前だった。あまり自分の名前が好きではないと、祖母は前に話してくれたことがある。どうにも快活な人だったから、花の名前は自分には似合わないと思っていたらしかった。でも俺は、祖母の名前が好きだった。ちょっとした時に微笑む仕草だとか、丁寧に身体を動かす様子だとか、名前にぴったりだと思っていたのだ。
 ミミズの踊るような字で綴られた祖母への恋文は、青春の香りをぎゅっと閉じ込めて固めたようなそれだった。祖父から祖母へ宛てられたものではとも思ったが、文面を読むと、どうやらそういうわけでもないらしい。
 ──もしまた、一目でもお目にかかることができますならば……。
 もしまた、お目にかかることができますならば。一目でもいいから。もしまた……。誰がどんな思いで、絞り出した言葉だったのだろう。
 そして、手紙の締めくくりにはこう綴られていたのだ。
 「あの丘の上で、待っていてくださいませんか」、と。

 電車を降りて、夏の日差しが俺を容赦なく照り付ける。一瞬で額に汗が走り出す。ここに来たことを後悔しそうになった。冷房の効いた部屋でゲームでもしていた方が何倍も良い。
 でも、うだるような暑さの中、田舎の誰も居ない駅で、蝉の輪唱を浴びているこの感覚は、どこか幻想めいていて不思議なものでもあった。
 “あの丘の上で”
 その丘には心当たりがあった。昔、俺が小さかった頃連れてきてもらった祖母の実家。遠い田舎の、山間の村。
 小さかった俺は、祖母にとある場所を案内されたことがある。
 ──おばあちゃん、ここは何?
 ──ここからはね、村の全部が見渡せるんだよ……。
 確証はなかった。でも、確信はあった。祖母がどうして俺をあそこに案内してくれたのかは分からない。けれど、そこが祖母の大切な思い出の場所であるならば──。
 「あった」
 頼りない記憶を頼りに、何とか丘の上にたどり着く。間違いない。周りの木の様子を覚えている。ここで間違いない。シャツが背中にへばりつく。髪がぐっしょり濡れている。息が上がって呼吸が苦しい。俺は、顔を上げる。

 青い、青い空がそこにはあった。
 大きな白い雲が空の真ん中にどっかりと座っていて、その端が、山の緑に吸い込まれていっている。眼下には、懐かしい田舎の村が、全部、見える。

 息をするのを忘れてしまいそうだった。

 この景色を、ずっとずっと昔の祖母は見たのだろうか。俺が小さい頃よりも昔の、今の俺と同じくらいの年齢の祖母は、誰かと一緒に、この景色を見たのだろうか。
 今はもう会うことのないその人に想いを馳せながら、俺と同じように、夏の真ん中で、この空と山と村の景色を独り占めしていたのだろうか。
 ふと、足先の木の根っこに視線が止まった。そこには、石でできた何かが崩れた跡が残っている。長い年月によってそれは崩れてしまっていたけれど、確かにそこには何かがあったらしかった。
 しばらく考えた後、俺はふと衝動に駆られて地面を掘り返していた。もしかしたら祖母か、あるいは恋文の君が、この瞬間だけ俺に乗り移ったのかもしれない。

 錆びついたアルミの缶だった。元はお菓子の容れ物であるものらしかった。
 本当に出てくるとは思っていなかったので驚きながら、俺は慎重にその缶の蓋を開けた。

 そして、その中には──


 帰ろうと背を向けた俺を、一陣の風が通り越していく。思わず振り返った俺の視界に、それが映った。
そこに、彼女はいた。
 白いワンピースを被り、麦わら帽子が飛ばされないように手で押さえながら、丘の上から眼下の景色を眺める人物がそこにいた。

 俺と同じ年齢の、少女だった頃の祖母の姿だった。


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文:天野うずめ
挿絵:あきゅあ

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