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クーピーでいえば白(漆2)

漆2

 しばらく後、喜美江の母親と、森田家、学校長、担任教師、そして市の職員と児童福祉士…学校の校長室での話し合いとなった。
 そこに二人…児童がまぎれている。喜美江と雄三だ。
「え…っと、君たちはどうして?」
 市の職員が子供たちに聞いた。
  多分、女の子は当事者だがもう一人は様子が違う。
 兄弟か?だとしても、こんな場にいるのはおかしいだろう?
「森田雄三です。キミちゃ…大館喜美江さんを助けました。」
 雄三は、深々と頭を下げた。
 ああ…そうなんだ…。けど、なんでここにいるのか。
 市の職員は「?」がいっぱいだ。
「私が呼びました。」
 漢が声を出した。
「大人だけだと結果は見えてるでしょ。穏便に済まそうとすれば話し合いも楽だけどね…」
「あ、いや…ですがちょっと込み入った話になりますので、お子さんが聞いてしまっては良くない表現や、その、話づらいのではないかと…」
「俺は聞いた、詳しくじゃないけど。キミちゃんが泣いちゃうかもしれないから、傍にいたいって言いました」
 と、雄三は胸を張る。
 はぁ…?
 うんうん…。上辺では、穏やかな顔で頷きながらも、市職員は胃のあたりがむかついてくる。
 この…いかつい男の子供か?と、言うか空気を読めよ。なんでお前らまでいるのかもわからない。当事者の母親と学校長くらいで良いだろうに。上司にどうやって報告すりゃ良いんだ。
「え~、ではまず、経緯からお聞きしたいのですが、お母さんに聞けばいいですか?」
 と、児童福祉士の女性が進め出した。
 いや、待て待て。子供がいるんだぞ!
 市の職員は慌てる。
「このまま開始するのですか?話し合いになりますか?森田…様はどうしてここに?」
「うちで保護してんだよ。このままこいつのところに帰すのは怖いんでね。参加させてもらおうと思ってよ。」
 と、漢がこいつ、と、喜美江の母親を親指で示すと、芳美はびくっと身体を動かした。
 何なのよ…。なんでこんな大事になってんの?
 芳美は、校長に呼び出された時点で、大概の予想はついていたが、森田家と、しかも子供までついてくるとは思っていなかった。
 あの…ふわふわと夫の金で遊んでる、朱莉という女ぐらいはどうにかなるが…。俯きながらちらっと、漢を見る。
 めんどくさい。喜美江が言ったのだろうか…。助けてくれと?余計なことしやがって…。ちょっと触られたぐらいで大騒ぎしてんじゃねぇよ。
 あ~大体あの男が馬鹿だ。小児性愛者だったなんて言わなかったくせに。あの後、あいつの家に行ったら、子供の写真が山ほど出てきてゾッとした。
 体操服とか、スクール水着で興奮するとか言いやがってさ…。挙句の果てに自分に着てくれなんて言い出したりして…。
 ま、それはそれで良いけど…
「おい。お前どう思ってんだ」
 と、漢は芳美を睨んだ。
「え…どうって?」
 営業用…外向きの顔をして、芳美は首をかしげる。
「喜美江に謝ったのか?」
「…謝る?悪いのは、あの男ですよ?私がいない間にこの子に…まあ、手を出した、というか、少しですよ。」
「お前…喜美江を殴ったろ?」
 漢は、ゆっくりと日焼けした太い腕を組んで、さらに芳美を威圧する。
「なんで、それ…。わ、私もちょっとびっくりしちゃったから、つい。なんでそんなことしたのか、って。あんた、なんで話したの?余計な事言わないでよ、みなさんにご迷惑かけないで」
 と、最後は喜美江を怒鳴りつけた。
「お母さん!今、どういう状況なのかわかってますか?」
 思わず、児童福祉士が母親を叱る。
「お子さんが傷つけられたんですよ。その相手のことをどうしてすぐに通報しなかったのですか?」
「通報?」
 芳美は目を丸くした。
「あんなことで?警察呼ばないでしょう?大した事してないよ」
「大したことしてない?喜美江ちゃんの前でそんな…」
 と、朱莉は目を丸くして驚いた。
「だって、この前泣いてらしたじゃないですか。すみません、喜美江をお願いしますって…。だから、しばらくお預かりしたんですよ。その間に、その…彼をきちんと更生させようと…」
「更生?そんなに急に人間が変わるわけないじゃない。」
「我が子が…ひどい目にあわされたのに?喜美江ちゃんの気持ちを…」
 朱莉は、自分と同じ母親、という立場でいる女性を不思議な感情で見ていた。感情がないのだろうか?反省はしてないのだろうか…。
 なんだか他人ごとのような顔をしている芳美が、なんだか怖い。
「ああもう、あのぐらいで大騒ぎしてさ。どうするつもりよ、みんなに私がいじめられるじゃない」
 芳美は、あろうことか、また喜美江に噛みついた。喜美江は小さな身体を増々小さくして俯いた。朱莉は全身の鳥肌が止まらない。さすがに市の職員も眉根を寄せる。雄三が、喜美江の背中をそっとさすりながら、芳美を睨みつけた。 
「喜美江がうちにいる間、お前何してたんだよ」
 漢が芳美に聞いた。
「…いつも通り、仕事してたわよ。」
「それで?」
 は?なんなのこの男。
 漢のぞんざいな言い方が芳美には腹が立つ。どんな男も操ってきたつもりだ。社長、医者、教師、警察官…肩書を持ち、経済力のある男ほど簡単だ。関係さえ持てれば、自分の言うことを何でも聞いてくれるし、何でも買ってくれる。一流ホテル、高級料理、ブランドバッグ…。一瞬でも、自分は貴族のようにふるまえたし、お姫様のように思えていたのに…。
 この男も、1回誘っておけばよかった…。
「その男とは会ってないよな?」
 会ってたわよ。
 喜美江がいないんだもん、好きな時好きなだけ会えて、幸せだったわよ。昼も夜も、彼は大学生だからいくらでも時間なんか作ってくれるし、若いからいくらでも抱いてくれるし。
 ああ…やだ、今すぐにでも会いに行きたい…。
「こないでって…言ったのに…俺が悪かったって、うちに来て…」
 腹のなかとは裏腹に、首をクネクネと動かして、眉根を下げ、しおらしい顔を作る。あとは、涙でも浮かべれば、男たちなど簡単だ。
「ほぉ…。もちろん追い返したよな?あんたのしたことは犯罪だって、二度と来るな通報するよって言ったよな?」
「怖くて…言えなくて。お前も捕まるぞって、脅されて…」
 芳美は顔を手で覆い、よよ、と泣き出した、フリをする…。
 可愛そうに…。
 市の職員は思っている。
 実は、母親の恋人、もしくは再婚相手に虐待を受ける子は少なくない。施設にももっとひどい状況の子も多くいる。ただ、ほとんどの母親は、それを見て見ぬふりをしている場合が多い。自分もやられてしまう、もしくは、生活のためにその男に嫌われないためにだ。世間にしられてしまうのを恐れて、子供の存在さえも隠してしまうことなどザラだ。この母親は、それでも必死で子供を育てているし、子供への被害も最小限で済んでいる。ラッキーな方だ。
 体まで売って、まあ、若くて美人だし、それができるのなら、生活のため、子供のため、だ。しょうがない。
 この森田と言う親子は、多分、何不自由なく生きているのだろう。母親が反省すれば平穏に…。
 世の中は、そんなに簡単ではない。
 行政には生活保護などもあるが、その基準は厳しい。元気で働けるのなら、働いてもらうしかない。なかなか許可が下りないからだ。しかも、若い女性で、未婚の子持ちとくれば差別的な視点がからんでしまう。自業自得、社会不適合者…。色眼鏡で見る者は多い。女ってのは、本当に大変だな、可哀想に。
 彼女は俺が守ってあげないと。
 市の職員は密かに思っている。
「まあまあ…お子さんもいるので…。お母さんばかりを責めてしまうと話が終わりません。大館さん、この先どうしましょうか?」
「どうって?」
「お子さんとの生活です。経済的に厳しいのなら生活保護の受給、職業支援なども視野に入れて、例えば、その間だけ一時預かりの施設へ入ってもらうとか…」
「勝手に話進めてんじゃねぇよ!」
 漢が怒鳴った。
「お前最初からそのつもりできてるだろ?簡単に子供を施設にだの、なんでこいつの味方なんだ!」
「だ、だって…その話し合いでしょう?校長先生から話を伺った時、警察へ言う前に行政で対応したいとおっしゃたから。捕まったら、それこそ施設へ行かなきゃいけないんですよ。お母さんと離れたら、お子さん可哀そうでしょう?ある程度なら、私の方でお助けできますが、現実問題として良くお考えください」
 めんどくさい男だな!助けてあげなきゃダメだろ?きれいな女性が泣いてるんだからさ。やさしくしてあげなくちゃ、男なんだから…。
「先生」
 言ったのは、雄三だ。先生と呼びかけたのは、校長だ。先ほどから苦虫をつぶしたような顔で黙り込み、腕を組んで目をつむっていた。
「今日は、どうしてその大学生って奴がこないんだ?犯人だろ?そいつがキミちゃんに謝らないと駄目なのに」
「ハンニン…」
 子供の素直な表現に、市の職員と児童福祉士はぴくっと反応した。
「…雄。」
 朱莉が思わず、雄三の口を押える。が、その続きを漢が引き継いだ。
「そうだよなぁ…。当事者がいねぇんだもん、先生よぉ、あんたどうしようと思ってんだ」
 校長の井之頭充(いのかしらみつる)は、眉根を寄せた。
 ややこしいことになった。母親を叱り、行政から金を支払わせて早々に終わらせようと思っていたのに、何故、子供を呼んだのか、と。
「…え~うん、森田雄三君と、大館喜美江ちゃん、ね…今のお話を聞いていて、何故みんなでお話合っているかわかりましたか?」
 しかめっ面を緩やかにほぐし、井之頭が子供たちに目を向けた。
 教師と言う立場上、子供たちの手前、その話し方は、ここが学校だということを思い返させた。
「…キミちゃんと母ちゃんを、元通りにするのか、離すのかってことです」
 雄三は言う。
「でも、帰る場合、もうあの家に大学生がこないという約束をさせること、別の男の人たちも。普通の人は来てもいいけど、キミちゃんに変なことをする人がこないことがわかるまでは、キミちゃんはうちにいる方が良いから」
 意外と、しっかりとしてる子じゃないか…。
 井之頭は内心、慌てている。もう少し子供らしい回答が来ると思っていたからだ。
「うん…。そうですね。雄三くん君は良くわかっているね。喜美江ちゃん、このままお話を続けて大丈夫かな?」
 喜美江は、ずっと下を向いて震えていた。母親が睨んでいるからだ。
 良かった…。森田家がいてくれて良かった。一人だったら、生きている心地がしないだろう。
 もう、何日も母親の元から離れていた。あの家に帰るのも怖かったし、母親と二人で生きることを考えると息苦しくなった…。
 今日、このまま帰ることが決まったら…。太ももの上に置いた、手でギュッと握りこぶしを作った…。
 すると、その手にそっと、雄三が手を重ねた。

 ふわ‥ん…

 喜美江の心が少し、軽くなった気がした。もしかしたら、今なら…。
「…帰るの…怖いです」
 喜美江は声を絞り出すようにして言った。だが、芳美がいち早く反応して叫んだ。
「何言ってんの!あんたが悪いんだから、早くごめんなさいって言ってよ。話しを終わらせないと余計迷惑かかるんだから。」
 喜美江はビクッと身体を震わせた。
「すいません全く。こんなことで、校長先生にご迷惑をかけて~。帰ります、うちにいるのが当たり前です、親子なんですから、ほら、喜美江」
「大学生はこないよな」
 雄三が突き詰める。
「は?そんなのあんたに関係ないでしょ、うちのことなんだから」
 と、雄三を睨むが、その奥の漢や行政スタッフと目が合って、芳美は慌てた。
「も、もちろん、もう…男を呼びません、喜美江がいる時は。」
「それじゃあ、解決しませんね」
 と、井之頭が言う。先ほどの子供たちに向けた笑顔とは、全く違う厳しい表情をしている。
「喜美江ちゃんは帰るのが怖いと言ってます。何が怖いのですか?」
「…男でしょう?変な…彼も別に変な人じゃなくて、良い大学の頭の良い子で、ちょっと、喜美江が可愛そうだったからって。ふふ…あの、ボロい服着せてるときで…給料前で買い物もできなかったから、たまたまなんですよ。それを慰めてたら愛しくなっちゃったって…。優しい子でね、ま、若いからちょっと興奮しちゃって…」
 芳美は、クスクスと含み笑いをしながら答えた。
「さっきから、あんたは何を言ってんだ!」
 井之頭が叫んだ。漢は、同じように息を思い切り吸っていたが、ホウッと口から吐き出して井之頭に任せた。
 なんだ、ちゃんと話せる人じゃないか、と…。
「子供たちの手前、静かに聞いていましたがね、あなたは自分を何だと思ってる。警察に言えば捕まりますよ、わかってますよね?何故言わないと思います?」
「…私が捕まれば喜美江の行く場所を決めないといけないから」
「喜美江さんが、犯罪者の娘になるからですよ。」
「犯罪者の娘?」
 芳美はきょとんとした。
 違うだろ、悪いのはあいつだ、私じゃない。
 あの後、娘のことで彼は悩み、落ち込んだ。そんな彼が可愛そうになって、その後、寝ても金をせびれなくなった。
 愛しているんだ、どうか、警察には言わないでくれ、大事にするから…。
 いつか結婚しようとまで言ってくれたし、だけど、彼に時間を割くと他の男から金が入ってこないし、結局、商売あがったりなのよね。だから、むしろ私は被害者だ。というより、悪いのは喜美江じゃない?彼は可愛がろうとしただけで、ちょっと…悪ふざけが過ぎたけど、犯罪者って…ねぇ。
 芳美自身も彼にはもう体の関係ではなく、愛情を持ってしまったようだ。  
 芳美は、自分の保身と、自分だけの将来の幸せを優先した。
 だいたい、こいつらには何も関係ないし、少し離れた場所にでも引っ越して巻いてしまえば…。彼とうまく行けば結婚とか、親は裕福だし、もしかしたら玉の輿も可能。でも、喜美江が戻るとなると、彼とは会えなくなるか…。いや…少し時間を空ければ良いんじゃないか?
 芳美は、頭をフル回転させた。
「悪いのは彼よ?…だけど、先ほどから言ってるように、そんなに大袈裟にする必要はないでしょう?怪我したわけじゃないし、喜美江は元気だし、彼もまだ若いのよ?将来があるの。犯罪者なんかにしたら可哀そうよ。反省してるから、たとえ会っても何もしないわよ」
「会わせるつもりなのか!もう、実際にこの子は傷つけられたんだ。その相手を可哀想?喜美江さんが怖いと言ったのは、あんたのことだよ!」
 井之頭も、目を丸くした。この女は、こういう人間だったのか…。
「は?そりゃ親だもん、怒るでしょうよ。怖いからって離れられないの!親子なんだから、うちにいるしかないじゃない。喜美江!早く謝って!帰るって言ってよ」
「なんで、喜美江が謝るんだよ。お前だろうが!」
 漢はついに怒鳴ってしまった。芳美はビクッとなったが、眉根を寄せて、喜美江を指差しながら言った。
「なんで私が謝るのよ。なんで私が責められるの?この子のせいでしょう?」
「な…何言ってんだ。なんで喜美江のせいなんだよ」
「だって、すぐ逃げれば良いのにさ。靴買ってくれだの、お小遣いくれだのっていうから彼もその気になったのよ。わかる?誘ったんだよぉ、子供のくせに。あ~生意気、ほんと気持ち悪い。なのに私が悪者にされてさ。喜美江のせいで、いつもそう」
 と、腕を組んで口を尖らせた。若くて可愛い、悲劇のヒロインを演じ始めた。自分は悪くない、むしろ被害者だ、というのを伝えたかったのだろう。
「お前は…そんなに馬鹿なのか」
 漢は目を丸くする。いや、全員が言葉を失った。
 朱莉は、寒気がしてたまらない。誘ったんだよぉ…。そう言った芳美の顔は、女だった。不倫や浮気などの痴情を話している女性の顔…。そして、そのあと気持ち悪い、と、吐き捨てるように言った。自身の子供に対して?そんな感情を抱くのか?もしかして自分の娘に…。
 喜美江に対して、嫉妬…している?
 すぐ逃げれば良いんだよ…。そんな程度…。喜美江が不憫でならない。
「大体、施設だって普通の家の子預かれないでしょう?私はいつも殴ってるわけじゃないし、簡単に引き離せるわけない。ねぇ、そうでしょ?」
 と、芳美は首をかしげて、市の職員へ微笑みかけた。
「そ、そうですよね。施設は結構いっぱいでして…、そのもっと状況が悪い子もたくさんいるので…。両親が事故とか、ひどい虐待とかで…。とりあえず、喜美江さんもお母さんもお元気ですから…」
 市の職員が、キョロキョロと周囲の人間の顔色をうかがいながら畳みかける。多少、唇のはしをにやけさせて…。
 雄三は、芳美の言動に違和感を感じた。
 どうして、大人たちは何も言わないんだろう?このままキミちゃんが帰ったらどうなるかなんて、わかるはずなのに。
「おばさん、その犯人より俺たち若いんだ、子供だぞ。俺たち、キミちゃんの方が未来があるだろ?どうしてその男ばっかり庇うんだよ」
 雄三が言った。
「ンぐ…」
 声にもならない音を、芳美は喉の奥から発し、雄三を見た。子供の真っすぐな視線をまともに受けてしまい、目を逸らすことが出来ない。
 なんなのよ…このガキ。
「ここに来てからキミちゃん震えて泣いてるぞ。どうして手を握ったり抱きしめたりしないんだ?うちの父ちゃんや母ちゃん、ばあちゃんだってするのに。おばさんは、睨むだけで見もしない。ほんとに親なのか?」
 全員が、静かになった。
 ぐす、ヒック、ぐすん…。喜美江の泣く声だけが、校長室に響いた…。

 帰るしかない…。
 喜美江は思っている。しょうがない、親子なのだから…。
 だって、元気だもんな、そうだよ、たいしたことないことなんだ、あんな人、もう顔も忘れちゃったし…。

「うちで預かるよ」
 漢が言った。朱莉も、すぐ隣で真摯な顔で頷いていた。その場の全員が目を丸くした。
「な…んなの?めんどくさいな!ああ、そうか…。いろいろありがとうございました。後日…きちんとお礼を…します。そんなに、出せないけど…」
 芳美がうやうやしく頭を下げた。
 結局、私が大人にならないと話が終わらないのね。でかい会社の社長のくせに、食費とか、光熱費とかかかってるって言いたかったんだ、あ〜イヤだ、ケチ臭い。家にいるふわふわした女が面倒見ただけだろうよ。まあ、何日か預かってもらったし、とりあえず1万円くらい出す…。あ〜あ、自分の老後資金がやっと貯まってきたのに。今回は喜美江のために使って…。でも、もったいないなぁ。
「もう、良いです。関わらないでください。どうか、お願いします。」
 腹の中で思いながら、芳美は、もう一度頭を下げた。
「森田さん、この度は本当にありがとうございました。ですが…簡単に言ってもらっては困ります。あくまでも、今回は突発的なことで、続いていけば余計に喜美江さんの心に負担にもなります。おうちに帰って、きちんとお母さんと絆を深めていかなければ、何も解決しないんです」
 と、児童福祉士が漢を窘める。
「森田さんのお宅は…男児4名、しかも喜美江さんと同じ年齢のお子さんもいらっしゃいます。何が起こるかわかりません。今、この場で解決策として受け入れることは難しいです」
「家に帰ったって、何が起こるかわかんねぇだろうが」
「お母さんですから、お子さんのことを優先するのが普通です。あの…学生と言う方と関わらないよう、お母さまには念書を出し、手続きをします。警察へは言わない方向で良いでしょうか」
「だから、キミちゃんは戻りたくないって言ってるじゃん」
 雄三は児童福祉士へ口を尖らせる
「今までの話、何を聞いてたんだよ」
「だ…から、親子だから一緒にいるべきでしょう。お子さんが嫌だとしても、家族ですから一緒にいなきゃダメです。喜美江さんが一人になります。可哀そうでしょう?親がいるのなら、親といるのが当たり前です。お母さんと離れるのは寂しいでしょうし…」
 市の職員が口を挟む。
「帰りたくないって言った!」
「それは、学生や男の人が来るからって。こないようにお母さんはしますよね?もちろん、喜美江さんを最優先しますよね?」
 と、半ばにやけつつ芳美を見ると、腕を組み、全く見当違いの方向を向いて、市の職員を無視した。
「…と、とにかく、森田さんが預かるというのを、はいそうですか、と私共は受け入れられません。施設でもない、同級生のおうちですし、どういう…方かも私共はわからないので…。校長先生、警察へは言わない方向で良いですか?」
 市の職員の事務的な言動は、朱莉の心を閉ざした。今、ここで何か言っても解決しない。これは、なんだったのか…。
 それは、漢も同じだった。目の前でなんだか語っている市の職員をこづいてやろうか、と内心で毒づいている。
「父ちゃん、何か言ってくれよ。キミちゃんこれじゃ可哀そうだろ?うちに来い、キミちゃん、うちにいろ。な、ご飯食べよう、一緒に漫画見よう…」
 雄三が泣き出しそうな顔で懇願する。喜美江は、雄三の存在に感謝する。
 雄三君がいるから大丈夫、頑張れるよ…。
 そう思って、雄三の手をギュッと握った。
「…キミちゃん」
「雄くんありがとう。大丈夫、家に帰るよ。」
 喜美江ちゃん…。
 朱莉はまた、自分の不甲斐なさに落ち込む。こんな風に、子供に気を遣わせてしまった。
 こんな小さな子に…。
 元栄になんて伝えれば良いのか。

 その後、喜美江は自宅へ戻った。母親は、行政から勧告を受け、しばらくは大人しくしていたようだ。雄三は、喜美江を相変わらず遊びに誘って、時々、元栄のところへ連れて行った。もちろん、朱莉も一緒だ。漢は、校長となにやら話し込んでしたが、朱莉や雄三から話を聞くだけで、その後、何も言わなかった。
 喜美江は、母親との生活を続けた。今まで通り、何も望まず、期待せず、日々過ぎて行くだけ。芳美は男からの収入が減った。その分、行政から生活保護を受け、それなりに生活はできたし、弁当屋のおかず以外に、自分でいろんなものを作るようになった。朱莉から、シチューとピザの話を聞いたからだ。カレーやチャーハン、やってみると意外と楽しかったし、喜美江も手伝いなどをして、少しは母子らしい時間が持てていた。

 だが…ある日。
 喜美江が学校へ行っている間に、大館家に1本の電話が入った。
 夕方、学校から帰った喜美江がドアに手をかけると、カギが開いていた。    ママ帰ってるの?今日は早いな、夜のパート休みかな…。にこやかに部屋に入ると、そこには、あおむけで横たわる母の姿があった。
「ママ!…寝てるの?具合悪いの?」 
 流し台にリンゴが半分に切られて置かれていた。リンゴ?…珍しいな。家で食べることなどあまりない。居間へ喜美江が近づくと、母親は目を開けて寝転がっているようだ。
「あれ?なんだ起きてる…」
 足元に、何か広がっているのに気が付いた。喜美江の白い靴下に、ジワリと色がついた。
「なんだ?これ…」
「おう、喜美江ちゃんお帰り。お母さん居るかい?」
 玄関から顔を覗かせたのは、このアパートの大家の男だ。首にタオルをかけ、髪のなくなった頭を掻きながら、にこやかに部屋を覗き込んだ。
「今日はさ、家賃をもらいに来たんだけど…」
 ん…?
 ぎゃぁああ…。
 突然声をあげ、大家は転げるように階段をかけ下りて行った。
「おじさん、どうしたのかな?ね、ママ…。」
 と、喜美江はもう一度、母親を見る…。
 目を見開き、口を半開きにし、目は天井を見ているが黒目に光はない。手足を大の字に広げ、真っ白な肌は、人形のようだ…。自身の白い靴下は、赤黒く染まっている。
 この前、買ってもらったばかりだったのに…。
 くるぶしにお気に入りのキャラクターの刺繍が入っている靴下は、久しぶりに、母親と出かけた近所のスーパーで買ってもらったものだ。「靴は、また来月のお給料で買ってあげるからさ…」そういって、ママが見つけてくれた、大好きな靴下なのに…。
「マ・・・マ?」
 ランドセルを背負ったまま、動かない母親をじっと見下ろしていた。しばらく後、警察がバタバタとやってきて、大家が喜美江を保護し、近所の人間や、野次馬たちの目に晒されながらパトカーへ乗せられた。その間、何を考えていたのかも、何を話されたのかも、警察がどんな顔だったかも覚えていない。母親の、白い顔だけが脳裏に焼き付いて離れない。靴下は証拠品として、誰かが持って行った…。
「キミちゃん!」
 聞き覚えのある、いや…その声で我に返った。
 雄三が、大勢の野次馬の中から、必死で自分へ向かおうとする。が、警察に止められて暴れていた。
「雄くん…」
 その姿を見た瞬間、自分に起きたことを理解した。ああ、一人になってしまったな…と。
 大粒の涙が目からこぼれた。どうして…私はこうなのだろうか…。
「大丈夫だ!俺がいる!泣くな、キミちゃん。俺が守るから!」
 警察に抑えられながら、雄三は必死に訴えた。周囲の野次馬は、カッコいいねぇ、男らしいや、と薄笑いをする。それでも、喜美江には少しの希望が見えた。
 そうか、雄くんがいるなぁ…。
 来週から夏休みだし、また元栄おばちゃんのところに行けるかなぁ…。ミイちゃんとレオと遊びたいなぁ…。
「ありがと雄くん、またね」
 パトカーに乗る寸前、笑顔で雄三へ告げた。
                        

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