ここにないものは、見つけられない。
ここにないものを探しているから
ここにない、ということが起きている。
ぜんぶそう。とても単純。
それを ”ここにないもの” として捉えているから
”ここにないもの”を見ようとしたり、わかろうとするのだけど、その時点で ここにはない ってことになってしまう。←だから認識できない。
そうやって”ここにない”というアプローチを選択した時点で、それは”ここにはない”
たとえば
「探している」とか「考える」というのは、いまここに「ない」「わからない」から…というのが前提になっている
”だから”ない
”いまここにある”と確認したとき
それはいまここにあるものとして認識される。
だから、ある。
そして、この確認というのは“考える”じゃない
イメージや概念の中での確認じゃない。
これは時空とか、
場所や時間の法則なのかな。
遠くにそれを置いてしまうかわりに
近く、親密さ、いまここ
非二元に関してもおなじことで、
いまここにしかないものを
“いまここ以外”に探しても
見つからないのは当然
というのと
マインドには捉えられない
= 確認する場所が違う
ということ。
「探究している限りはみつからない」
とよくいうけれど、そういうことで
わかろうとすればするほど離れていくし、マインドという次元に、それは存在していないから。
(わからないから“わかろう”としているゆえにそこにはないし、そもそも探す場所はマインドの中ではない。)
マインドは情報を集めて分析したりイメージすることしかできない。そして、マインドはつねにいまではなく”いまの一部”、イメージや想像上のものしか、そこにはない。
いまここは過去じゃないし、イメージじゃない。
そこにないものをさがしても、そこにはない。
そして、いまここをみつける場所として、
マインドの中は見当違いであるということ。
マインドの中にはないのだから。
”わかる・わからないというマインドの中”に、みつけたいそれは”置いていない”から、みつからない
というより、ない。
ないところをさがしても、見つからない。
これは
テーブルの上にコップが置いてある。
そこにコップがないなら、見つけられない
っていうぐらい単純なことで、
それがあるのは”いま”で、
それは”いま”そのものだから、
いまじゃないイメージや
マインドの中を探しても
ないに決まってる。
どんなに探しても、ないものはないのだから。
理解はできても、それそのものじゃない。
リンゴを想像しても、
それはリンゴじゃない。
なんらかの概念やイメージがあったとして
そのイメージ・概念を追うようなことをしても
それはそれそのものじゃないし、
マインドは“いまここ”を見つけられない。
なぜかというと、
マインドは過去で、いまここは過去じゃない。
いまここを思い出しても、それは記憶だ。
記憶上のいまここ、そのイメージ。
これは例え話だけど、
(たぶんすべて例え話なんだけど、、、)
マインドは”その外側”で起きていることは認識できない。アリさんや植物が人間の世界のことを認識/捉えられないのとおなじ。
テーブルの上のコップを”想像・イメージ”しても
本物のコップは、そこには置いて”ない”し、
実際にコップが置いてあるのは
マインドとは違う次元
こうやって、いまここについて語っても、
これも“ いまここについて ”で、
それそのものじゃない。
だから、これのことを
《掴めないもの》とか表現される。
語ることはできても、それそのものじゃない。
描写してみるけど、それそのものじゃない。
あの人の話をしても、
あの人そのものではなく、
あの人についてのイメージや記憶でしかないように。
マインドがお手上げになったときに
マインドを通してみようとするのを止めたとき
そのときの、これ。
すべてがこれ
これ以外がない
マインドも例外じゃない
けれどマインドはそれに気づけない。
海に泳ぐ魚が”海そのもの”を認識できないのと似てる。魚は、魚という性質も保ちながら、海を見ることは不可能。魚は海の中にいるのだから。
マインドが マインドが起きているスペースそのもの を認識できないのは、そういうことで、マインドが いまここ/たったひとつのこれ を認識できないのは、そういうこと。
魚が海に気づくには、
”自分も海だった”ことに気づくしかない。
以上、、、、
いまここにないのだから見つからないよね、という話。
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