伝えきることのハードル
2020/3/26にリリースされた BuzzFeed 岩永直子さんの記事をツイートしたところ、フォロワー数を遥かに超えるリンクのクリック数をいただいた。
少しでも「伝える」ことの重要さ・難しさに関心を持っていただければ良いなと思う。
実は2月の終わりにも『伝える』というテーマでコラムを書いたことがあるが、もう一度深掘りするべきと思い“続編”を書いてみることにした。
三省堂 大辞林 第三版 によれば「伝える」には以下のような意味がある。
つた・える つたへる [0] 【伝える】
( 動ア下一 ) [文] ハ下二 つた・ふ
〔下二段動詞「伝(つ)つ」に接尾語「ふ」の付いた語〕
① (情報や、人の言葉などを)他の人に知らせる。伝達する。 「こちらの希望は文書で先方に-・えてある」 「御両親にもよろしくお-・え下さい」 「会って私の本当の気持ちを-・えたい」
② 語り継ぐ。 「湖の主と-・える」
③ (文化や価値ある物などを)離れた場所や後世の人に受け渡す。 「キリスト教を日本に-・えた人」 「村の伝統工芸を後の世に-・える」 「家宝を子孫に-・える」
④ ある物理作用が離れた所に届くように仲だちをする。 「銅は電気や熱を-・えやすい」
⑤ 伝授する。 「きんぢ、この手を-・へ施すものならば/宇津保 吹上・上」 〔「伝う」に対する他動詞〕
ぼくは「伝える」というのはあくまでも出し手側の行為であり、希望であり、受け手側についてはほとんど考慮されていないと思っている。
「伝える」のは勝手だが結果についてはまた別の話だ。
今回の新型コロナウイルスに関する国や行政、専門家会議はたしかに「伝える」という行為をした。
しかし、それがはたして「伝わる」ものであったかというと、とても充分ではないと感じている。
前記事でも書いたが、日本語という基本的には日本人であれば誰でも通じる言語のおかげで「伝える」ための工夫や技術がおろそかにされていると思う。
「伝わらない」のは受け手側の問題とされ、理解されないのは自分のせいではないという風潮。
特に弁舌では負けるわけにいかないという国会議員や超がつくほどのエリート街道を驀進してきた高級官僚には高い高いプライドがあり、「あなたの言葉では伝わらないので、スピーチやリスクコミュニケーションのプロにチェックしてもらってください」などという要望には簡単に「はい」とは言えないだろう。
しかし、彼らの言葉の先にいるのはさまざまな環境で育ち、暮らしている国民だ。
『自分の常識』が通用すると思う方が間違っている。
そして、国民に「伝わらない」ということはすなわち、(流行りの言葉でいえば)“オーバーシュート”を引き起こす可能性が高くなる。
一方で、「伝える」能力を高く評価されている知事や市長もいる。
北海道の鈴木知事、千葉市の熊谷市長、熊本市の大西市長は、分かりやすく的確な情報発信で道民・市民の信頼を得ている。
ただし、心配なのは北海道、千葉市、熊本市の行政システムとしてこの情報発信がなされているのかという点。
首長が交代すると発信のクオリティーが下がるようでは、個人の資質に任せきりということになってしまう。
国民、住民の隅々まで早く確かな情報を行き届かせることが求められる状況は、新型コロナウイルスに限った話ではない。
膨大な情報が飛び交う時代ではどんな怪しげな情報が発信され、あらぬ方向に大衆が誘導されてしまうか分からない。
そのためにも政府、行政には「伝える」ための専門家を早急に採用・配置し、無駄な動揺を抑え込む体制づくりが喫緊の課題ととらえて欲しい。
国政面では個人的に内閣府の下に広報庁を新設したらどうかと思っているが。
適切な情報発信は安心と適切な警戒心をもたらす。
そのうえで、我々は手指洗いの徹底や咳エチケット、3密の回避など適切な行動をとれると思う。
収束まではまだ先行きが見えない現状で、変えるべきは変える勇気と決断力を求めたい。