見出し画像

子供の「支援会議」の受け止め方

私は今まで、子供の支援会議に行くとき、
子供にその会議の存在をこう説明していました。

「学校に行っていないと、元気に過ごしてるか
 みんな気にかけてくれるんだよ。
 だから元気ですって伝えてくるよ。
 くうちゃん(長男)がやりたいことの
 応援をしてくれる人たちが集まってる。
 今もっとこうしたいけど、
 うまくいかないって感じることってある?
 色んな人のアイデアや意見を聞きたいと
 私は思ってるから行ってくるね。」

そんな風に伝えて、
今やりたいことを確認して出かけていました。


先週
「めっちゃ楽になる支援会議の作戦会議」を開催したとき、

支援支援と言われ続けると
子供が「支援される人」という意識がついちゃわない?

という意見を頂きました。

なので、改めて
長男のくうちゃんが支援会議について
どんな印象でいるのか聞いてみました。

会議に出発してから帰ってくるまで
2時間以上かかる時もあったので

・ぐちゃぐちゃ意味わからないことを話してるのかな。
・僕には理解できなそう。
・今後どうするか話してるよりもその時間に
 やりたいことやっちゃった方がいい。

そんな印象でいたそうです。

そして「支援」という言葉についての説明を
辞書を見ながら
しっかりしてみました。

力をかして助けること。
ある状態がくずれないように維持をすること。
活動の一部を手助けすること。
最終的な行動や責任は本人にゆだねられるのが支援。

だから、くうちゃんの「支援会議」といったら
くうちゃんに
「力をかして助けるための話し合い」
という意味になるよって。

そう言われてどう思う?

その問いかけに対する
くうちゃんの返答に

私はまた気づかされました。

くうちゃんは

「力をかしてもらった、助けてもらったと思うと
 すごくありがたいよ。
 僕も助けたいと思うよ。
 みんな、助け合って生きてるんでしょ。」

そう答えました。


支援という言葉を聞いたときに
なんとなく
支援される側とする側という構図が
私の中にはできていて、
される側は社会的弱者という印象が
あったことに気づかされました。

きっと、「障害」とか
「いきづらさ」という言葉も
似たような部分があるのかなと思います。

出来る人と比べて、
できない部分にフォーカスされてる感じが
私の中にあります。


迷惑をかけちゃいけないとか、
がんばらなきゃいけないとか、
条件反射のように私の中にある気持ち。


くうちゃんの中にあったのは、
助ける側、助けられる側という感覚ではなくて
「助け合って生きるもの」という感覚でした。

そんな感覚の社会だったら、
なんか優しいなって思いました。


母親になったとき、
しっかり育てなきゃと思いました。
そこには育てる側と育てられる側があって。
何かを教える側と教えられる側があって。
以前の私が常にいたのは
育てる側で教える側でした。

でも、子供の自閉症と不登校を経験して
私は子供たちから自分を生きることを学び、
自分の生き方を楽な方へ変えていく
大きなきっかけをもらいました。

今もこうやって子供たちから
学び続けています。
人間を育ててもらってるし
教わっています。

助け合い、学び合い、
一緒に在りたい現実を創り出していく仲間。

私にとって子供たちは
そんな存在になっている気がします😊






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?