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raggio

『raggio-輝き-』

 彼は、真昼のまばゆい光の中に現れた影。
 かっきりと濃い闇に縁取られ、光の中の何物とも混ざり合わない、強い黒。
 漆黒に輝くその存在は、後世にまで語り継がれる悪でなく、他に並び無き、何人とも隔絶した、愛されると共に畏れられる、不滅の個性である。

「公爵!」
 暗い室内から回廊に面した飾り扉が大きく開き、まぶしいばかりの陽光が彼を包んだ。
 白く眩んだ目が慣れた頃、庭の緑や真ん中にある古代ローマ式の噴水の輪郭が次第にはっきりと姿を現してくる。
 彼は足早に中へと進み入り、目的の人物を探す。
「書記官」
 明るい庭の光りの中から、自分を呼ぶ声がして、黒い影がここだと手を挙げてみせている。
 「彼」は、マキアヴェッリを呼ぶ時には必ず、この呼び名を使った。
 上質な錦糸の縁取りのあるマントを羽織り乗馬手袋をはめた公爵は、遠乗りに出かける装いで、中庭を横切っている途中だった。
「そこに居られましたか、公爵」
 礼を表すために帽子を取り、美男と賞賛される公爵を見上げる。見知った声に、マジョーネの乱を治めたばかりのこの公爵は、先を急ぎながらも機嫌良く振り返った。
 マキアヴェッリは、彼を公爵《デューカ》と呼ぶ。
 君主・公爵・領主、さらに教会軍総司令官。……彼を呼ぶための肩書きは多い。
 彼は強い輝きを放ち、抜きんでた行動力で人心を惹きつけて止まない。その体の内に理想的な君主の姿を見出しながらも、マキアヴェッリは「公爵」というその呼び方を変えなかった。
 この国での彼の立場は、刺客。この、飛ぶ鳥を落とす勢いである若者の真価を探るために派遣された彼の立場が公爵をそう呼ばせ、そしてそのフィレンツェ共和国の公僕という役職に忠実であるが故に、彼はその最上の尊敬を奉るにたる目の前の対象にすら、自分の真価を悟らせることはなかった。

 若く張りのある低い声で、公爵は書記官に問う。

「今日は何用か?」
 魅力的な、耳に心地良い声。それに釣られて要らぬ事をぺらぺらと喋ってしまいそうな自分を押し止める。
「本国から帰国命令が出ましたので、本日はお別れのご挨拶に」
 恭しく頭を垂れる書記官に、公爵は鷹揚な表情を一瞬強ばらせたが、相手が顔を上げた時には片眉を跳ね上げて見せただけだった。
「それは……残念なことだが、書記官にとっては喜ばしいことだな」
 言いながら、公爵は付けたばかりの革手袋を外して右手を差し出した。
 まるで、長年来の友にそうするかのように。体面を気にせず平民である彼に対しても自分と同等に接する。そしてそのくせいかにも貴族的な威厳を持つこの公爵は、若さに似ない気品をも併せ持つ。
 公平で親密な態度……だがこれを本気と捉えていては手ひどいしっぺ返しを食らうのだ。
 それは、この数ヶ月、本意と不本意の感情の中で間近く、彼をつぶさに観察してきた結果で見知っている。何しろ、公爵はあのどう見ても劣勢であった彼に対する反乱を、ほとんど武力を使わずに、いわば最小限の血で治めて見せたのだ。しかも、これは単に合理的であると判断した手段によったからであって、彼が時に冷酷に行動する人物であることも、デ・ロルカの無残な死体をチェゼーナの街に晒して見せたことで、証明されていた。

 敵に対する折に見せるあの冷酷な迄の果断さも、友と呼んで懐へと抱き寄せるその分け隔て無い率直な態度も、同じその手で行われるのだということを、忘れてはならないのである。
 ともかく、この数ヶ月あまり、イタリア統一という野望を抱き、政治という舞台で縦横に活躍する唯一の演者であった公爵と、その近くで固唾を呑み、息を殺して見守った唯一の観客であったマキアヴェッリ。互いの立場は忘れることなく、しかし似通った何かを感じ取って交流を交わしていた二人が、少なからず別れを心寂しく思ったとして、無理からぬ事ではないだろうか。
 だが、去る場面でもマキアヴェッリはやはり友好国の役人であるという立場を越えはしなかったが、ただ少しばかりの冗談を言えるくらいには、公爵の中に自分の位置を認めてはいた。
「はい。これで奥の心に精神の安定が訪れることでしょう。なにしろ、あれは私にベタ惚れときています」
 お世辞にも美男とは言い難い自分の容姿を棚に上げ、書記官はニヤリと笑って見せた。
「身から出た錆は拭ってもまたそのうち綻び出る。……難題だな」
 類い希なる美男の公爵もまた、含み笑いで答える。マキアヴェッリの蝶を求めて渡り歩く癖は友人達の間では有名だったが、殿上人である公爵がその事について耳にしているかは甚だ疑問だ。だが、全てを見、全てを聞いてなお、おくびにも出さないこの「偉大なるしらっぱくれ」は、政治にとっては取るに足らないコマの一つである書記官の悪癖についても、既知であったかもしれない。
 和らいだ空気の中、マキアヴェッリはいつもより軽装な公爵の出で立ちに目を向けた。
「公爵は遠乗りで?」
「そうだ。近々の案件は片付いた。息抜きも必要だろう」
 肩まで伸びた黒い髪が、風になびいて幾筋か。その神も嫉妬しそうな魅力的なかんばせにかかる。
 公爵の美しい顔は、太陽のように輝かしく朗らかではないが、愁いに満ちた目元の魅惑には、どんな強情な女も撥ね付け続けることは困難だろう。それは、男でも同じ。いや、美しい物に弱い男の方が、よりその魅力に囚われ易いかもしれない。
 公爵の背後に、青毛の馬を伴った従者が現れた。馬は蹄鉄の音をさせて中庭に入ってきたが、その手綱を引いている側近は忍ばせてもいないのに足音を立てずに寄ってきた。この陰気な男は、初対面でもないというのに、マキアヴェッリを値踏みするかのように眺め見ている。
「道中のご無事を」
 そう言って、書記官は先ほどとはまた違った笑みを公爵に向ける。
「それはこちらの言うことだ」
 旅装をまとった書記官から餞の言葉を贈られて、公爵は一瞬鼻白んでみせたが、すぐに屈託のない表情で首を傾げ、手袋をはめ直した。
「ミケロット!」
 名を呼ばれ、その意を瞬時に汲んだ従者が手を貸すと、公爵はひらりと身を躍らせて鞍に跨った。
「では、また! 恙ない旅を!」
 馬上から投げられたその言葉を、マキアヴェッリは恭しい礼で受け、このあまりにも理想的な君主足りうるにふさわしい公爵との別れの一抹の寂しさを胸に、屋敷を後にした。
 「ある場所を出発したと人に悟られないうちにもう他の場所に現れている」と評されたことのある公爵だ。もしかしたら、あの軽装で目的地の近くまで馬で駆けて行き、素知らぬ顔して次の獲物の前に現れるのかもしれない。そして、その大事の前の、ある意味無防備な姿を自分は急襲し目撃したのかもしれないと想像して、マキアヴェッリは愉快になった。

 今や、ヴェネツィアもミラノもナポリも、この年若い公爵に怯え、全てを巻き込む嵐の巣のようにその一挙手一投足に視線を注ぐ。それは、彼の故国であるフィレンツェ共和国だとて例外ではない。
 彼は、真昼のまばゆい光の中に現れた影。
 かっきりと濃い闇に縁取られ、光の中の何物とも混ざり合わない、強い黒。
 僅か数年を駆け抜けた、漆黒の黒で引かれた線のような軌跡は、ある日突然、ふつりと途絶えた。

 その死は、人間の越えられるよりも、もっと大きな不運によってもたらされた。


 あの日、イーモラで目撃した、闘牛にも似た彼の闘いを思い返す度、マキアヴェッリの瞼の裏には闘牛士姿をした公爵が浮かぶ。その想像も、彼の元々の血筋を思えば無理からぬ事かもしれない。ボルジア家は元々情熱の国スペインはバレンシア地方に、その始まりを持つ。


 その死の十年後、チェーザレ・ボルジアはニコロ・マキアヴェッリによって生身を持って存在した「過去の人」ではなく、理想の粋を詰め込んだ理論上の存在へと昇華されるのである。君主という存在が持つべき大胆さと果敢さと思慮深さ全てを持った、存在へ。


**了**

『我が友マキアヴェッリ』読了記念で書きました。

フィレンツェ共和国の外交官を務めたイタリアルネサンス期の政治思想家であるマキアヴェッリに多分に影響を与えたチェーザレ・ボルジアという人物の、もし彼らが共に歩んだとしたらという歴史の「if」に思いを馳せつつ、だがしかし現実はそうはならなかったという結果を噛みしめつつ。

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