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いつかまたあの国で紅茶を飲みたい

写真を整理していたら昔の旅行の写真を見つけました。
それらを見ていたら記憶がどんどん蘇ってきたので旅行記のようなものを書いてみました。
約8500字あるので15分~20分ぐらいかかると思います。
お暇なときにどうぞ。



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ぬめりとした汗

鉄格子の中には窮屈そうに6.7人の男が立っていた。暗くて表情が読めない。

ドルを渡す。餌付けではない。両替だ。
タカが返ってくる。当然足りてない。

これ足りてないんだけど。と突き返す。
すると数人で話し合った後、面倒くさそうに紙幣を自分の胸ポケットから出してきた。
え、胸ポケ?自腹?というか、その話し合い要る?
ああ、これはヤバいところに来てしまったと思った。空港内の両替所でこれである。


その時すでに陽は落ちていた。暗く埃っぽい通路の奥のガラスドアの向こうには無数の黒い人影がある。
なぜこんなに人が?
意味が分からない。
夜なのに異常な過密度で男たちがいる。そしてその異常に白い眼球がいくつもこちらをじっと見ていた。

ぬめりと汗が染み出す。
ヤバい。まず何としてでも今夜の宿を確保しなければ。
街に出て探す余裕は無い。そもそもあの人混みを無傷で抜けられる気がしない。
ここで一晩やり過ごすべきか。いや、こんなところで一晩明かしたら、いやいや、あと1時間でもグズグズしていたら死ぬかもしれない。
空港のカウンターで頼むホテルなんて予算オーバーなことは間違いないけど背に腹は変えられない。


送迎の車が来てホテルに案内された。空港からさほど遠くない、こじんまりとしたそれでいて高級感のある家々が見える。大使や駐在員などが住むエリアだろうと思った。

部屋に入り、少し安堵したところでガイドだと名乗る男が訪ねてきた。

君はなぜここに来たのか。どこに行くのか。
この国は君が一人で歩くには危険すぎる。
英語は通じない。
自分をガイドに雇えばその問題はすべて解決だ。
選択肢は無い。


と言った。



深夜特急

そのひと月前のこと。
週に一便しか飛ばないビーマンバングラデシュ航空に席を買いバンコクに向かう時、隣に座ったバングラデシュ人と話をした。

日本で働くビジネスマンで夏の間だけ帰省するのだという。僕はタイの調査を終えたらインドに行こうと思っていると話すと、だったらバングラデシュに寄っていけばよい。うちに泊まれば良いと言ってくれた。インドには陸路で行けるしと。

バングラデシュがいかに素朴で良いところかということを力説された気がするけれど、僕にとっては全く知らない土地を陸路で国境を超えるということがえらく魅力的に聞こえた。それはまさに深夜特急の世界だからだ。

高校生の頃、父の本棚で見つけた沢木耕太郎の深夜特急を見つけた僕はたちまちのめり込み、いつか陸路で大陸横断をすることが憧れになっていた。大学生になるとバイトをして貯金をし、休みのたびに旅に出るということを繰り返した。

当時、猿岩石のヒッチハイク人気も相まってバックパッカーという存在は決して珍しいものではなかった。特に東南アジアに旅立った若者は多かったと思う。結果『深夜特急的』な旅をするノウハウは共有され、どこに行っても日本人がいて日本語で情報が得られるという不自由ない貧乏旅行ができるようになっていた。

旅のスタイルはそれぞれだ。バカでかいバックパックに母国のお菓子を詰め込んで旅をしても構わない。カオサン通りに”沈没”し、夜な夜な世界中から集まる仲間と乱痴気騒ぎを繰り広げるのも良い。それを否定するつもりはないけれど、僕はそれに馴染めなかった。

外国人同士よりもその国の人と話がしたかった。観光客のいないところに行きたかった。観光ズレしていない地元の人の生活を見てみたかった。


適正価格

観光ズレは観光客がつくると思っている。
先進国から来た人は物価の安さに驚き、財布のひもを緩める。でも安さには基準を持つべきだと思っている。

観光客の買うものは地元民より高い価格になるものだ。それはビジネスなので当たり前。
しかし、その国の平均月収近い金額を安いと言って簡単に払ってはいけない。
お金を払う時は、自分の国の感覚ではなくその国の価値に当てはめて考えるべきだと思う。

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例えばその国の物価が日本の1/4の場合、タクシーに乗って日本ならば1000円ぐらいの距離だなと思えば、その1/4の250円が地元価格。
観光価格はそれの4割増しぐらいだとすれば350円ぐらいが妥当と考えるべきだ。
しかし金額交渉は2000円ぐらいから始まる。これを時間をかけて話すと1000円ぐらいまでは簡単に落ちる。
そこからもう一声で800円ぐらいで手を打つとする。最初の半額以下にまで下げられたし日本より安いので良いだろうと。

でも違うのだ。この800円は彼らにとっては3200円なのだ。
1000円のものを3200円で売り付けられてニコニコしてたらアホでしょう。
逆に1000円のものが3200円で売れるんだったら真面目に働くなんてバカバカしくなってしまう。
これって誰の為にもなっていない。と僕は思っている。

だから適正な観光価格をつくるためには、金額交渉をサボってはいけない。
それは自分の為であり、日本人の為であり、その国の発展の為に必要なことなのだ。

そういう話をインドのブッダガヤで会った少年とした。少年の方からそう言って価格を決めてきた。多分10歳ぐらいの少年。眼の奥に強烈な意思を持った人だった。

話が盛大に脱線しかかっている。
この話はまた今度にしよう。


ノープロブレム

そんなわけで、地元の生活を知れるまたとない機会、しかもあまり観光客に開拓されていない見知らぬ地。迷いはなかった。
バングラデシュの首都はダッカ。ダッカと言えばハイジャック事件。良く分からんけど危険なにおいがして面白そうだと思った。

その後予定通りタイの少数民族の集落調査を終えた僕はバンコクに戻ってダッカ行きの航空券を手に入れ、意気揚々と一度会ったきりのバングラデシュの友人宅に電話をかけた。

「もしもし。」
「হ্যালো」
「○○さん居ますか?」
「আমার কোন ছেলে নেই」
「英語でお願い出来ますか?」
「আমি বেশি কিছু করতে পারি না」
「○○さん居ますか?」
「আমার go ছেলে back জাপানে ফিরে এসেছে japan」

え?嘘でしょ。
航空券買っちゃったよ。バンコクからダッカの往路とデリーからバンコクの復路。
空いてなかったから夜到着の便にしちゃったよ。
領事館でビザも取ったよ。

と言えるはずもなく、ただただ「分かりました。ノープロブレム!」と電話を切った。

さあ、でっかいプロブレムだ。困った。じゃあガイドブックだ。
バンコクの本屋をくまなく探したけれど地球の歩き方はなかった。というかバングラデシュ編は当時まだ出版されていなかった。
ロンリープラネットは在庫切れだった。

いよいよ困ったことになった。
困ったけどもう他に方法は無いのだ。航空券を買い直す金銭的余裕は無い。しかも日本に帰る飛行機はひと月先なのだ。このままひと月先までバンコクでただ過ごすのも辛い。

じゃあとりあえず行ってみよう。
まぁなんとかなるだろうと楽観的に考えることにした。


契約

男はギラギラだった。金縁の眼鏡をかけ、金の指輪と金の腕時計をしていた。
陸路でカルカッタまで行きたいと伝えると、「俺ならその手配が出来る!」と勝ち誇ったように言った。

「で、それまでの間はどうするか。」
「街をぶらぶらしたい。」
「分かった。じゃあ案内しよう。」
「独りで行きたい。」
「無理だ。英語は通じないぞ。君はベンガル語出来ないだろ。」
「ガイドはいらない。」
「俺がいなかったら生きていけないぞ。」
「ガイドはいらない。」
「カルカッタまでのチケットの手配は難しいぞ。俺ならば、@/&☆○*$#%。。。」
「じゃあチケットは取ってくれ。でもガイドはいらない。」
「街は危険だ。俺がついていないと@&_%<+○$。」
「。。。もう疲れた。帰ってくれ。」

翌朝も男は訪ねてきた。
昨晩と同じやり取りを幾度か繰り返し、折れた。

ガイドとして雇うと言わなければホテルさえ出られない。

こうしてこの男にぼったくられ続けることが決定した。


ガイド

バングラデシュは貧しい国だ。何故ならば国土の大半は川であり、度重なる水災に家屋や畑を持っていかれるからだ。毎年国土の3分の1が1m以上に潅水するらしい。

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じゃあもっと肥沃で安全な土地に移ればいいじゃないかと思うけれど、彼らにとってはやっと勝ち取った安住の地。

いくら苦難に会おうとも、独立した自分たちの土地に住むことに意味があるらしい。

※バングラデシュはイギリス領インド領パキスタン領を経て1971年に独立したベンガル人の国家です。


この感覚は植民地支配されたことのない日本人には中々実感は出来ない。なるほどなぁと唸るしかない。

とは言っても住む場所が少ないのだから人口は集中する。調べると世界で最も人口密度の高い国らしい。そうか、だから空港にあんなに人がいたんだ。

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その首都であるダッカは超過密都市である。職を求めて農村部からも人が集まりリキシャやタクシーを営業する。超渋滞は日常茶飯事でクラクションと排気ガスの充満する街になっている。

男はそんな話を歴史博物館を案内しながらしてくれた。とても分かりやすかった。

毎年のように洪水が起きるのに、どうやって生活してるんだ?と聞けばじゃあ案内すると言って翌日には舟を用意して近郊の河川氾濫原の農村に連れて行ってくれた。

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デカい口叩くだけのことはある。ガイドとしては相当に優秀な人なのだろう。


広い河

農村に行くとき、今まで歩いてきた地面が急に水になっていたような不思議な感覚があった。
陸地と川の境目がわからないのだ。
堤防もないし川原もない。
小舟に乗って漕ぎ出すといつのまにか大河の中にいて、巨大な貨物船がそばをカスめていく。

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ミルクティ色の水は、数センチ先でも全く見えない。この水の下がどれぐらい深いのか。何がいるのか。全く分からない。

ふいに不安になる。今自分はどこにいるのか。誰とこの舟に乗っているのか。どこに向かっているのか。分からないことが多すぎてそもそも自分がどこから来たのかさえ分からなくなりそうになる。


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村は簡素だった。流されても良いように簡素な造りの小屋で生活している。
こんな不安定な土地で不安定な舟に乗って不安定な生活をしている人たちがいる。
素朴。ただひたすらに素朴だ。

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見ていると笑顔を返してくれる。帰りには別れを惜しんでくれる。
言葉は全く分からないけれど、だんだん表情が分かるようになってきた。


レンガ

地元の人の生活が見たいとガイドの男に言ったら、レンガを割る作業場にも連れて行ってくれた。

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レンガを割る作業場?何の為か聞いたはずだけど覚えていない。
レンガを割る作業場では女たちがレンガを割っていた。少女から老女まで。
何の為に???
機械が無いわけではないのに。


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なぜ女性が?
炎天下で。


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ガイドの男に強要されて撮った一枚。
後ろの男たちはさっきまで居なかったはずなのにいつのまにかわらわらと集まってきて、写真に入ってきた。

役割分担が分からないけれど、人を使う人と使われる人がいるようだと感じた。


違う顔

建築を勉強していることを話すとルイス・カーン設計の国会議事堂に連れて行ってくれた。

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※写真は映画「マイ・アーキテクト」から

ルイス・カーンは大好きな建築家だから期待していたけれど、感動は無かった。
建物はめちゃくちゃ格好いいけれど、リキシャの人たちや米農家の人たち、レンガを割る人たちの顔とこの建物の顔は違いすぎると思った。

中に入りたかったがムスリムではない人間は入れないとのこと。
ふーん、やはりイスラム教は厳格なのねと思っていたら、
ガイドの男は「女はどうだ?買うか?」と持ち掛けてきた。
「イスラムの世界でそんなこと許されるの?」と聞いたらニヤッとして「俺なら可能だ」と言った。
あー、やっぱりこいつ嫌いだわと思った。


タバコ

インドでもそうだがタバコは道ばたの街路樹の下にタバコ屋がいて、木の枝に火縄が括り付けてある。
道行く人はタバコを買ってその場で火をつけていく。
庶民は一本ずつ買うからだ。

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タバコは紙巻で箱に入った高級タイプ(日本では普通の)、紙と葉を買って自分で巻く中級タイプ、紙の代わりに葉っぱで巻いてある廉価タイプ(名前は忘れた)がある。

普段は廉価タイプだけれど、たまに高級タイプを1本だけ買うという人もいる。葉巻みたいな感覚だろうか。
そういう人はタバコ屋の横でじっくりと味わって吸っている。
だよね。うまいよね。と言いたくなる。
素朴。ただただ素朴。

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ガイドの男は金色のBenson&Hedgesを吸っていた。
「これが最高なんだ。これ一箱であそこのあいつの一か月分の収入ぐらいするんだ。かっこいいだろ。」みたいなことを言っていた。
あー、やっぱりやっぱりこいつ嫌いだわと思った。


負ける交渉

目的はカルカッタまで行くこと。そのチケットの手配を出来るだけ早くしてほしいと初日からお願いしていたが、結局3日かかった。

中々取れなくてって言っていたけど本当かどうかはかなり怪しい。
滞在が長くなればなるほどガイド料が発生するからだ。

そもそもガイド料は法外な価格だった。細かくは覚えていないけれど1日あたり5000円ぐらい取られていた気がする。それ以外に移動費や食事代まで全部僕が出していた。

ぼったくられていることなど分かっている。逐一いまのはいくらだったよと言ってくる価格が全部おかしいのも分かっている。

「違うだろ」と言っても当然男の価格は変わらない。でも言わないと次はもっとふっかけてくるから言い続ける。で毎回負ける。つらい。

この男がチケットを持ってこないと僕はこの国を出られない。大きく負けないようにするには小さく負けるしかない。勝ちはない。つらい。

ムカついてもしょうがない。下調べもせずに途上国に飛び込んだ自分が悪いのだ。旅行予定残り1ヶ月(バングラデシュ+インド)で10万円ぐらいしか持っていなかったのに、バングラデシュでその半分近くを使った。

お金だけの問題ではない。
ガイドの男のことは全く信用していないのにも関わらず、その男頼みで旅をしているという矛盾に押し潰されそうだった。

男と共に行動している間中、僕が考えていたのは、
・いまここで置いていかれたらどうするか。
・この舟が転覆したらどうするか。
・この奥から人が出てきて連れていかれることになったらどうするか。
・あの人はこの男とグルかもしれない。あの人も。あの人も。

ということだ。
自分がいつどこでどう料理されることになっているのか。という疑念が感情の大半を占めていた。

勿論、初めてのことを体験させてもらい感じたことはあるけれど、一瞬たりとも油断できない緊張の中で素直に観光は楽しめなかった。


結果、味覚が無くなった。
食べ物も飲み物もいつからか味がしなかった。
何かを食べていたし飲んでいた。でも美味しいか不味いかも分からない。
味の記憶が一切ないのだ。


脱出

3日目の雨の日、ついにインドに向かうバスに乗ることが出来た。
ガイドの男からチケットを貰い、行程と国境越えの手順を教えてもらい別れた。あっさりした別れだった。

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国境の町ベナポールまで約250km。日本でいえば東京から浜松ぐらいの距離だが、まるまる1日かかった。

陸路が途中で無くなっていたりするからだ。
待っていると船が来てバスのまま船に乗ったりする。
また、1日5回のお祈りの時間にはバスは止まり、全員降りて道端でお祈りを始める。
だから全然進まない。

僕はどこでも熟睡できるという要らない特技があるので、人前で寝たら危険だと思っていたけれど、いつまでも起きてはいられない。

どのタイミングで寝たら良いのか。周りの様子を伺いながら決める。でもバスは不定期に止まるので調子が掴めない。
起きたらバスの中に誰もいなくて、焦って窓の外を見たら全員地面に這いつくばってお祈りをしていたりした。

僕に分かることは時間だけ。いまどこにいるのか。あとどれぐらいかかるのか。なぜバスが止まっているのか。これは予定通りなのか?

分からない。ガイドの男がいたら分かるのに。と思うのも不思議な感覚だった。あんなに人を頼るのが嫌だったのに。


国境

国境の町でバスを降りたのは次の日の朝だった。入国審査の建物は小さく、入りきれない異常に沢山の人が皆屋外で待っていた。
やれやれここを抜けるのにまた1日かかるんだろうなと思い、並んだ。

並びはじめたら隣の男が、「昨日君を見かけたぞ」と言ってきた。
「レンガのところにいただろう」と。
そしたら近くにいた別の人が「俺も見かけたぞ」「ダッカの街を歩いていたのを見たぞ。」と。
さらに信じられないことにさらに別の人が「俺も見かけたぞ」「舟に乗って農村に行っただろう。」と言ってきた。

常に視線は感じていたけれど自分はこんなに目立っていたのか。と思うと怖くなった。何と答えたら良いのか分からず愛想笑いをしていると、彼らはその次に信じられないことを言った。

「ありがとう」
「来てくれてありがとう」

数人が口々に言ってきた。
ありがとう?なぜ?
と反応に迷っていると、そのうちの一人が列の前の方に向かって何かを叫んだ。
前の人たちが振り向く。みな僕を見ている。
何かを話している。

何とも言えない不安を覚えていると入国審査の建物から出てきた偉そうな男が僕の方を向いて
「おまえ、こっちにこい」と言った。
人混みがすーっと割れた。道を空けてくれる人たちが皆笑顔だ。
分からない。なぜ笑顔?なぜ呼ばれた?

何か責められるのかと身構えながらパスポートを見せたら、すぐにハンコを押してくれてあっという間に建物の反対側つまりインド側に出た。
一日かかると思われた入国審査はものの数分で通過してしまった。

何が起こったのか呑み込めずポカンとしていると、近くにいた男が教えてくれた。

あれはインド人とバングラデシュ人のローカル窓口なので、外国人は並ばなくて良いはずだとのこと。
そしてこの人も「君を数日前に空港で見たよ。このルートでまた会うとは思わなかった。」と言った。

「さっきの人たちも僕を見かけたと言っていた。そしてありがとうと言ってきた。どういう意味なのか分からない。」と聞くとその男はあーそうか。といった感じで説明してくれた。

「ここで国境越えをする人たちは私も含めインドとバングラデシュを往復するビジネスマンがほとんどだ。私たちはインドと比べてバングラデシュがいかに貧しいかを良く知っている。この国は貧しく歴史も浅いので観光名所も無い。そういう国に観光旅行に来てくれる外国人は希少で有難いんだ。」と。

僕は、
(うっかり来てしまっただけだ。観光だって仕方なくしていただけだ。)
とは言えず、あいまいな顔をした。

その男は、道端の屋台を見つけると紅茶を二杯買ってきて、一つを僕に渡した。
「おごるよ。」
「なんで?」
「お礼だ。私も感謝している。」


そして乾杯をした。
一口飲んだ。


甘い!!!
めちゃめちゃ甘い!でも美味い!


コップの中を見るとそれは舟から見えた川の水にそっくりだった。
その中に何が潜んでいるのかわからない、呑み込まれそうな怪しい水。
でもこれは紛れもなく甘くておいしいミルクティー。


気が付くと涙が出ていた。
ずっと気を張ってきたものが解け、色々な感情が一気に溢れてきた。


やっと悪徳ガイドと別れられて、無事に出国できたという安堵があった。
ずっと早く出ていきたいと思いながらしょうがなくしていた数日の行動が、人にこんなに感謝されていた。
優しい人たちがこんなに沢山いた。

この時初めて味が分かることに気が付いた。
美味しいという感覚をずっと忘れていたことに気が付く。
もしかしたら、今までにもこういう美味しいものを口にしていたのかもしれないと思った。

整理はつかない。ただただ涙が出た。
後にも先にも初対面の人の前であんなに泣いたのは無い。

その男は「カルカッタに行くのならばあのバスだぞ」と教えてくれて去っていった。



いつかまた

これは21年前のこと。
今ならば分かる。
なぜ味がしなくなったのか。なぜ味がしたのか。


気持ちの余裕が無かった。
その場の勢いで何とかなるさと思って行ったが、何ともならなかった。
生きて帰ってこれたという点では何とかなったのかもしれない。

でも、彼らの「ありがとう」に値するような行動だったとは思えない。
後悔はしていないけれど、もったいないことをしたと思っている。


今ならばもっと準備をして行ける。
今ならばもっと心に余裕をもって行ける。

もっと笑って旅行が出来ると思う。
乾杯だっておいしく出来ると思う。

だからいつかまたあの国に行きたい。

そして今度こそ乾杯したい。
町の人とも、村の人とも。
タバコ屋でもレンガ作業場でも国境でも。


今ならば、あのギラギラのガイドの男とだって美味しい紅茶が飲めると思う。
ただひたすらに甘い紅茶で、今度こそ乾杯をしたい。

いつかまた。






noteを始めてから、考えていることをどう書いたら伝わるだろうかと試行錯誤することが楽しくなりました。 まだまだ学ぶこと多く、他の人の文章を読んでは刺激を受けています。 僕の文章でお金が頂けるのであればそのお金は、他のクリエイターさんの有料記事購入に使わせていただきます。