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ボーは何をおそれている?

『ミッドサマー』『ヘレディタリー/継承』などの記憶に残る衝撃的なホラー体験をさせてくれるアリ・アスター監督。
3本目となる最新作『ボーはおそれている』を見てきました。

※この記事は個人的な感想です。
作品の内容に触れる表現がありますので、気にされない方だけお読みください。

日常のささいなことでも不安になる怖がりの男ボーはある日、さっきまで電話で話していた母が突然、怪死したことを知る。母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、こそはもう"いつもの日常"ではなかった。これは現実か?それとも妄想、悪夢なのか?次々に奇妙で予想外の出来事が起こる里帰りの道のりは、いつしかボーと世界を徹底的にのみこむ壮大な物語へと変貌していく。

『ボーはおそれている』webサイトより


赤ん坊の出産シーンから始まるこの旅は2時間59分。私はこのとき、まだ悪夢を知らない。

はなしの始まりは、通り魔やラリってるやつがウロウロして、常に怒号が飛び交う街からだ。
この世の終わりみたいな地域に住んでいるボーのアパートはエレベーターさえも、ギギギと唸りをあげる。
しかしどうだろう。ひとたびボーの部屋へ入ると、広いし、キレイだし、品がいい。
外界との明らかな違和感のコントラストにより、監督が最初に私達に教えてくれているのは、
「外の世界はボーの妄想」かもしれないよってことだった。
このベースを念頭に映画が展開されていくのだけれど、面白いのは一体どこまでがリアルなのか分からないところ。

何としてでも事故死した母親のもとへ帰らなくてはならないボーだが、車に轢かれたり、刺されたり、変な家族の巻き沿いになったり、理不尽な不幸が雨のように振ってくる。
このパワフルな不運は観客たちを辟易させると思いきや「一体何がおこってる!?」とアドレナリンを感じながら、ただ波に乗るばかりである。
普通は主人公が思うような活躍ができないと、次第に見る方はストレスが溜まっていき「いつ事態がひっくり返って、巻き返すんだ?」といまかいまかと逆襲を待つ。
ただアリ・アスター監督はこのセオリーをぶち抜いて、不幸まみれを貫き通す。
そして私は叫ぶ。
「あぁ!いやな予感大当たり!」
1周も2周も回って、こうなったらどこまでも行け!と私達を焚き付けているようにも見えるが、決して投げやりになっているわけではない。
監督は両手でそっと、この先に見せたいものがあるんだよ、と用意しているのだ。
ストーリーは4つに構成が分かれていて、味付けも違う。随所に伏線のヒントがあり、観客を置いて行かないようにすっごいフォローしてくれる。
まごころ・アリ・アスター。

作品が魅力的なのは監督の手腕もさることながら、ボー演じる「ホアキン・フェニックス」の役割も大きい。
おじさんに”可愛い”というのは気が引けるが、可愛い。いや、可哀想可愛い。
所在なさげの下がった眉に、5歳児のような瞳。自分で判断を下せない指示待ちの顔をよくする。
ボーのこの表情は、作品の核となる重要な幼少期へと繋がっている。

そもそもボーはなぜこんなにひどい目に遭いながらも、帰ろうとしているのか?なにがそんなに怖いのか。
部屋に閉じこもって嵐が過ぎ去るまで、布団の中で耳を塞いでいればいいじゃないか。
ボーは自分で決められない。
帰りたいから、ではなく「帰らなければならないから」
それは母親の威厳のため。その脳に刷り込まれた帰省本能をみると、幼少期から母親のモナが異常だったことが伺い知れる。
実際モナは愛情を与えるふりをして、ボーにそれ以上の見返りを求めた。
ボーの考えを操作し、矯正し、愛が足りないと怒り狂った。
「あなたに人生のすべて捧げたのよ。私に仕えなさい。」という憎しみでできた脅迫。

ここで、私達は実母との関係がどうだったかという問いを突きつけられる。
この映画を喜劇と感じるか悲劇と感じるか、見るに耐えられるか、ジャッジをするのは自分の心だ。
親と子の関係性は個人差があるし「良いこと」を前提にはできない。
近頃よく聞く耳障りな「親ガチャ」という言葉が頭に浮かぶ。
私は自分の人生に満足してないが、もう一度、広い海からやり直して赤ちゃんから始めるのはごめんだ。
母は子供を産みはすれど、神ではないことはよーく分かっているから。
私には3歳の娘がいる。
自分に余裕がないとき「母親」という肩書に甘えて、権力を振りかざしてしまうことがある。
「ママの言っていることをよく聞きなさい」と。
今後は"モナら"ないよう、この映画をたびたび思い出そう…

モナの住んでいる家には秘密の屋根裏部屋があって、そこにはボーの双子の兄弟が監禁されている。
この分身を捉えられているのも、精神的拘束感を強めるものとなる。
「どこにいてもあなたはここにいるのよ」と。
さらにボーは気づいてしまう。冒頭のカウンセラーも、再会した憧れのエレインも、全て母に仕組まれていたのだ。
そう、気づいたらモナ・ワッサーマンの会社「M.W.」のロゴマークまで至る所に登場している。
おおいなる母の絶望すごろく。

ボーはなにを恐れている?
所有物のように扱われてきた彼は、もし母親が死んだら、船のオールが折れてしまったと悲観するかもしれない。
自由を知らないのだ。
広い人生の迷子になってしまうのを、彼はなにより怖がったのかもしれない。

ラストシーンは大観衆が見守るコロッセオのようなアリーナだった。
母とボーの裁判が始まり、完膚なきまでに打ちのめされた彼は、爆発音と共にボートと沈みゆく。
この海は子宮の真ん中、また生まれ変わるのだ。
赤ん坊のうぶ声が聞こえる。
この声でふりだしに戻るのかは、ボーしか知らない。

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