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言葉に嫉妬する

 美しい言葉遣いの小説、ブログ、短歌……。美しい言葉というものは、単に正しい日本語を扱えているかが問題ではないし、美しい和語が随所に散りばめられた文章というわけでもない。

 ただ、一文を読んだだけでハッと心を奪われるような美しい文章に時折触れることがあって、私はその美しさをただ鑑賞するだけでは飽き足らず嫉妬する。それから、自分の文章の浅ましさに泣きたくなる。

 小説を投稿すると、美しい文章ですね、と褒めていただくことが何度かある。とても嬉しい感想だし、事実私は美しい文章を目指しているからその努力が実ったのだと思える。
 けれども内心、美しさにばかり触れられることに辟易としてしまう。なんて欲張りなのだろう。文章の美しさだけを小説の良さとして褒められることは、小説として破綻している。小説には美しさ以上に大切なものがあると、私は思っているから。

 私が美しいと思う言葉は、その人の血が通っている言葉。世界中に溢れる数多の文章を差し置いて、その人にしか描けない作品。私は、美しい文章に絵画を重ねたり音楽を重ねたりする。無意識のうちに、頭の中で音楽が流れたり、絵画が描かれたりする。

 けれども私の文章はどうだろう。自分でも、美しいな、と思う。当たり前だ。舌触りの良い滑らかな文を綴り、見た目にも鮮やかな単語を意識して並べているから。でも、それだけだ。美しいと感じるだけで、音楽は流れないし絵画は描かれない。奥行きのない、見せかけだけの、上っ面だけ整えられた文章。美しい文章ですね、としか褒められないのも納得だった。

 私は多分、自分のことを隠しながら文を書いているのだと思う。持ち前の文体や言葉選びを殺し、詩的な自分を気取っている。そういう文章を綴りたいと憧れてしまったから。でもいつか、理想と現実が融和するだろうと思う。書き続けていくうちに、美しい言葉選びの中に生身の自分を入れられるようになるだろう。

 根拠のない自信が湧いて出た。

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