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何を持ってその物語はバッドエンドになるのか

 私は小説を書くことが好きだ。小説を読むことも同じくらい。ただ、読み手のことを考えて文章を書いていたかと問われれば否。私は、自分の思い描くキャラクターが生きているところを描きたかった。

 ところで私は今、小説のプロットを考えている。題材やテーマはできた。オチだけが決まらない。正確に言えば、バッドエンドにするかハッピーエンドにするかで迷っている。どちらにもできるからだ。

 そこで私は考えた。物語上でのバッドエンドは、本当にバッドエンドなのか、と。本当の意味でのバッドエンドは存在するのか? という疑問が頭に浮かんだ。

 もしかしたらそれは、物語の中のキャラクターを現実のものとして受け止めているからかもしれない。具体例をあげる。
 私は少し前に、中学校に入学してからできた親友と疎遠になった。理由もわからず、その前日まで仲良く話していた子と。もしもこれが友情小説だったなら、ハッピーエンドではないだろう。事実私は辛かったし、今でもその子と仲直りをする夢を見るくらいには引きずっている。それでも、バッドエンドではない。

 それと同じように、最愛の人が物語のラストで亡くなったとする。これはバッドエンドだと言われる。恋愛小説でいえば、最悪の展開だから。でも、そのキャラクターにとって、最愛の人を失うことがイコール確実にバッドエンドなのか? 耐えきれなくなって後を追うことが、バッドエンドなのか? 私は時々疑問に思う。

 物語はキャラクターのものであって、読者のものだ。だから、キャラクターがその後の人生をどう歩もうが、キャラクターの一部分を切り取って描かれた物語が悲劇なら、読者がそれを悲劇と感じたなら、それがバッドエンドになるのだろう。最愛の人を失い、それでも最後にはその人を想い続けながらも生きることを選択した健気さと強かさが悲劇だと感じるなら、それがバッドエンドになるのだろう。

 シェイクスピアのロミオとジュリエットは、悲劇の中の名作だ。過去に読んだことがあるが、私は泣いた。号泣した。想い合う二人が辛くて、でも周りの人の心情も理解できて、だからこそ悲しかった。けれど、私はあのラストを二人があの環境の中で必死に掴んだ ″二人なりの幸せ″ だと思った。浅慮なのかもしれない。もしかしたら、そういう閉鎖的な関係に憧れているからそう感じたのかもしれない。けれど私は、あれを悲劇だとは思わなかった。

 人の幸せはわからない。まだ16年しか生きてこなかった私には、人生の重みだとか苦しみだとか、全て理解することなんて難しいし、しようと思うことは傲慢なんだろう。
 でも私は、これを書いてみて、どうして私がバッドエンドやハッピーエンドのくくりに疑問を抱くのかの理由を知ることができた。

 この物語をどう着地させるのかという問題は未だ解決できていないけど、解決するきっかけになったのは間違いないだろう。これから先、色々な経験を重ねて感情を抱いて、もっと考えを深めていきたいと思った今日この頃。

 ここまでお付き合いくださりありがとうございました。



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