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かつて小説を書くことが意味していたもの

 私は中学1年生から大学生くらいまで小説を書いていました。物語を綴ることとなったきっかけは今でも鮮明に覚えています。小説を書き始めた理由もこれまで書いてきたものも、世の中からしてみたらとても取るに足らない些細なものですが、私にとってはそれなりに大きな意味を持っているのです。人生において本格的な思考の始まりなのですから。

 きっと、物心も小説を書き始めたことで生まれたのかもしれません。小説を書く以前の記憶はありますが、書き始めた以後のものに比べると何やら確証に欠けるのです。確証という表現も正しくないのかもしれませんが、どこか亡漠としていて嘘臭さや不鮮明さに溢れているのです。昔のことだからなのでは、とも思ったのですが、ただ経年による記憶の薄れとは違う感じなのですよね。記憶のされ方や保存の方法が根本から違うような……? ビデオテープで三倍設定で録画したものとブルーレイディスクで録画したものくらい違うのです。

 とにかく、私にとって小説を書き始めることとは人生を始めるに等しく、書くことは生きることと同義でした。世界の全ては小説の題材であり、文章の塊をネットの海に落とすことが呼吸であって脈動であって自己表現であったのです。まさしく、生物的にも文化的にも生きることとそのものでした。思考を得たばかりの人間は水を得た魚と同じくらい幸福でした。

 かつて私にとって小説を書くことが意味していたものは、この世界で生きることそのものでした。こう書くと、何だか偉大な作家のような尊大さに溢れていますね。昔は自分の考えを表現する有効な方法がそれしか思い浮かばなかったのです。小説を書いていたわりには視野狭窄で、年相応以上の幼さを爆発させていました。

 現在はどうなのだと問われると、答えに困ってしまう今日この頃です。

(画像は全く内容に関係ありません。前に目白庭園のライトアップに行ったときに撮ったものです)



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