コンプレックス
私の右手の中指の第一関節にはペンだこがある。しかも大きめの。小学生の頃から、このペンだこがコンプレックスで、嫌で嫌で仕方がなかった。
姉からふと言われた言葉。
「ペンだこが無ければ綺麗な手なのに」。
それに嫌味は無いのだと思う。ただ見た感想だ。
雪を見て「雪だなぁ」と、風を感じて「風吹いてるなぁ」と思うのと同等だ。
だからこそ、その言葉は当時中学生だった私の心を深く抉り、傷付けた。
それから、人前に出る時はそのペンだこを隠すようになった。他の人には無くて、私にだけある歪なもの。時折酷く醜く見えて、そのまま切り落としてやりたかった。
少々グロテスクな表現になってしまったが、そのくらい私はこのペンだこが嫌だったのだ。
だが、今はこのペンだこが愛おしいと思うようになった。
は?と思うだろう。だけど、それが事実なのだ。
経緯を話そう。
とある現代文のお爺ちゃん先生が言った。
「君たち、自分の手を見てみなさい」。
私たちは素直に自分の前に両手を並べて見た。やはり、私のペンだこは目立っていた。
漫画で言えば全員が頭上に「?」を頭上に浮かべていた。それを見て先生が言った。
「この中にペンだこがある人はいますか?」
私は手を挙げなければいけなかった。だが、それは自分のコンプレックスを曝け出すことと一緒で、私は手を挙げることは出来なかった。
結局、誰も名乗ることはなく先生が言った。次の言葉が、私がペンだこを愛おしいと思うようになった。
「ペンだこがある人は努力ができる人です。勉強でも、執筆でも、書道でも、握っているものが絵の具の筆でも、それだけ「かく」ものを持っていた証拠です。誇っていいのです」。
この言葉で私の過去を全て救ってくれた感覚を覚えた。
私がペンだこが出来たきっかけは、小学生の頃のことだ。漢字ドリルや計算ドリルがあったことは覚えているだろうか?私はそれを3周、4周と解きまくっていた。鉛筆を握りすぎた結果、この歪なペンだこが出来たのだ。
「そのペンだこが大きければ大きいほど、硬ければば硬いほど、その人は努力したということです」。
先生の言葉を聞き、そう思えば、私は今まで邪険に扱っていたが、私の努力の結晶だと思えるようになった。この硬い皮膚の中には、私の努力が詰まっているのだ。
考え方次第では、自分のコンプレックスも好きになる。これを強く実感した出来事だ。
これを読んでくれたあなたにも、コンプレックスというのは小さくても存在していると思う。
そして、あなたのそのコンプレックスはあなたの自信に繋がらないだろうかと、私は今ここに願っている。