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推し活のことを書いていたはずがいつの間にか生き方の話になってしまうのはなぜなんだろう

先週末、スキズことStray Kidsのコンサートに行ってきた。

私にとって初めて体験するK-POPアイドルの単独コンサートだったのだけど最高オブ最高だった。
(初めて生で見たK-POPアイドルはTXTだけどフェスの短いステージだったし単コンはチケット取れず配信でしか見れていないㅠㅠ)

生スキズは本当に最高すぎて、コンサートが始まってから終わるまで、あ〜〜〜〜〜!最高最高最高最高最高最高最高最高!!!!!地球に生まれてよかったな〜〜〜!と心の底から感じた。

とにかくみんなかっこいいしかわいいし、キラッキラッキラッキラしてた。愛嬌たっぷりのペンサをしてくれた瞬間にはう゛あ゛ぁ゛あ゛ぁ゛あ゛か゛わ゛い゛い゛ぃ゛〜〜〜!!!!!と野太い叫び声がナチュラルに出た(真にかわいいものを目にすると動悸息切れ胸の苦しみに悶えながらこのような発声になる)。

自分たちであんなかっこいい曲を作ってる時点ですでにすごすぎるのにパフォーマンスのレベルもめちゃくちゃ高くて、目に楽しい構成のダンスと口からCD音源な生歌に痺れ、スタイルのよさと纏っているオーラでみんな細いのにデカく見えたし、ステージのいろんなところでいろんなことが起きていて本気で、め、目が足りねえ…!!!ってなった。コロナ禍で、カメラを切り替えて一画面にいい感じで見せてくれるライブ配信に慣れすぎて視覚が衰えた感じがする。

全力で歌って踊って走って、あんなコンサートができるようになるまで本人たちが積み重ねてきた努力や裏で支えてる多くのプロたちの仕事ぶりや想いを想像したらなんかジーンとしてくるし、感動と幸せと元気を与えてくれるパフォーマンスを見せてくれてありがとう!アイドルになってくれて超ありがとう!!!だった。

素晴らしい生パフォーマンスを見るたびに、こういう非日常のおかげで日常が楽しくなるし、平穏な日常のおかげで非日常がより輝く。日常が嵐だったら非日常を楽しむことは難しい。だから私は自分の心と体の調和を保ってできる限り穏やかで幸せに暮らしたいと改めて思う。

今日Stray Kidsデビューまでの軌跡をサバイバル番組を見ながら若さって美しいなと思った。エネルギーが弾けてる。無鉄砲ながむしゃらさとかひたむきさって歳を重ねるほどに失われがちだし知らないから挑戦できることってあるよなーとしみじみする自分に精神の老いを感じた。
(Nizi Projectのときも思ったけどドキュメンタリーに映るパク・ジニョン氏の人間性が素晴らしいなと思う)

可哀想に!さんの去年のライブレポがとても好きなので貼っておく。

生MIROHは本当に楽しかったな。

MANIACもよかったし강박もよかった。Back doorも神메뉴も143もFAMもよかったし、とにかくいろんな曲を生で見れてる歓びが私の中で終始スパークしていてとにかくテンションがやばかった(語彙力)。

このTWICEのレポも面白い。

最終的な感想が「ありがとう!地球!」なのわかりみ深すぎるし、改めてK-POPの世界って楽しいな〜!ってなってる。

他グルも推してる身分なのでステイです!と言えなかったけど、もう今はステイ。ジソンペン爆誕。K-POP世界というかアイドルの世界に「掛け持ち拒否」とか「同担拒否」という言葉があるけど(あと「新規」というだけで嫌う人もいるな)、1グループには絞れない。むり。

だって今推してるグループ、みんなイイんですもの。どのグループもどのメンバーも見れば見るほど魅力的に見えてくる。

特定のグループや特定のメンバーが好きじゃないとか興味がないと言う人は、よく知らないだけじゃない?って思うくらいそれぞれに素敵なところがある。不完全さも受け入れられる。みんな違ってみんないい。な状態。

リアルなコミュニケーションでもこういう気持ちをベースに持っていられたら世界は平和なんだろうなと思う。

最近公開されたスキズの日本語曲に「girl」という歌詞が入っていたことでファンダムがざわついていることを知ったのだけど、やっぱり人間の世界は大変だぜ…と思った。

これまでスキズには性別を限定するような愛の歌がほぼなかったことと、彼らが性的マイノリティへの理解を示すアクションをしていたことが相まってざわざわしてる模様。

「girl」という言葉を使うと自分を「girl」と認識している人だけが受取れる作品になってしまう、それは性的マイノリティを置き去りにしているとか、もっと包括的な歌詞を作ってほしいという意見に対して、単に考え過ぎとか、思うことは自由だけどアーティストに配慮を要求するのはエゴだという意見があった。

K-POP界はファンがアーティストや運営をエデュケーションする文化が強いように思う。そして日本でもLGBT法が議論されるようになったりと時代の変化もあって、こういう問題提起をよく目にする。

異性愛者の歌を聞いて傷つく人もいるということは想像できるけど、「作品」に対して特定の属性に配慮すべきだとか特定の言葉を使うべきではないと言うことには私は違和感がある。

私自身がアセクシャル寄りで基本的に恋愛をしないというのもある。数年前アセクシャルという言葉を知ったとき同じような人がこの世に存在していることにホッとした。

そういうことを知らない、知っていても理解をしていない友人知人は恋愛も結婚もする気がない私が何かが欠けているかわいそうな人に見えるらしく、いろんな言葉を言われてきた。

「あと(幸せになるために)は素敵なパートナーを見つけるだけだね♡」と嫌味じゃなく本気で言われたり、「もしかして、女の子が好きなの?もちろんそれでもいいんだけど…」と憶測で理解者になられたり、猫と暮らしはじめたら「あー猫に行っちゃったか」とがっがりされたり、韓国語の勉強はじめたら「韓国人の彼氏つくってみたら?」と勧められたり。

こういう言動に私はいちいち傷ついてきた。だから「girl」という言葉に胸がヒリつく人の気持ちもわからないではない。でも、自分がつらくて聴けないから配慮して、というのはちょっとわからない。どこに意見を送ればいいの?と言ってる人も見た。

私も「無性愛者というマイノリティにも配慮して。恋愛の歌は歌わないでほしい」と言うこともできるけど言わない。誰も傷つかないように全方向に配慮された作品なんてこの世にないと思っているのと、傷つける「意図」がないことに傷つくことは「私の課題」でもあると思っているから。

こういう配慮を求めたり問題提起をするとき「マイクロアグレッション」という言葉が使われることがある。

マイクロアグレッションとは、1970年にアメリカの精神医学者であるチェスター・ピアスによって提唱された、意図的か否かにかかわらず、政治的文化的に疎外された集団に対する何気ない日常の中で行われる言動に現れる偏見や差別に基づく見下しや侮辱、否定的な態度のこと。

Wikipedia

私はこの概念が広まることに危うさを感じてる。マイクロアグレッションに該当する言動というのは存在すると思うし、できる限り人を傷つけないよう気をつけることは大切だと思う。

でも誰かを傷ついた被害者だと主張して、誰かを責めるときにこの概念を使うことはコミュニケーションを萎縮させると思う。

その先にある世界は豊かだろうか?と思う。

「意図的か否かにかかわらず」と定義されているけれど、私は相手に「傷つける意図」があったかどうかは、かなり重要だと思っている。同じ言葉でもお互いの関係性の中で解釈はいくらでも変わる。

ある特定の言葉を使うこと=差別や攻撃だとは思わない。複雑な人の心やコミュニケーションの形を単純化して、特定の言葉や行動、それを使った人を責めたり排除する流れが強まれば、その流れを作った人たちもいずれ追い詰められる世界になるんじゃないかと思う。

少しの言葉で理解しあえる人もいれば、どんなに言葉を尽くしてもわかりあえない人もいる。この世には多様な人間がいて、多様な動植物やウイルスや菌が存在していて、いろんなものが共生して、今この瞬間のこの世界を構築している。

より良い世界をつくるために意思表示したり行動することは大切だと思う。でもその為に個人同士が争ったり、何かを禁じたり、誰かを排除するような世界には私は住みたくない。ひとりひとりの自由が尊重されて、お互い許し合って、感謝の心を持って、歓びを分け合える世界に住みたい。

どんなに知識があっていろんな構造が見えていても、人間愛がなかったら世界を良くすることは難しいんじゃないかと思う(自戒)。優しい世界を作るために大切なのはやっぱりラブマイセルフで、自分で自分のケアができて、自分の心と体がしっかりしていること。

なんの話してたんだっけ…?

って感じだけど、とにかくスキズのライブは最高でした。



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