託宣の人(短編小説)
畳の部屋から廊下に出た。
素足の下で冷たい木がきしむ。
庭園に面した離れ家へ長い廊下が続いているのが見えた。
さきに行っていた二人が入り口で私を手招きしている。
廊下からは、広大な日本庭園が一望できる。
あのぽつんと離れた東屋(あずまや)か茶室のような場所からはなお美しい庭を堪能できるだろう。
身をかがめて鴨居の下をくぐる。
ここなら一息つける。
私たち三人は外の騒乱から逃れてここに来た。
何気ない抗議行動の体(てい)を装って始まった騒乱が、このままでは終わらないことを、三人とも薄々感じていた。
だが私たちはいつも一緒にいた。
これからもきっと、何があっても乗りきれる。
嘘のように静かだった。
池泉(ちせん)づくりの庭園だ。
水の下に鮮やかな白と橙(だいだい)が緩(ゆる)やかに動く。
痛いほどの静けさにたまりかねたのか、一人が口を開いた。
「外は嵐になりそうだね」
「ここもいつまでもつかな」
それきり黙った。
ふと、窓を見た。
格子の付いた小窓から外の庭を覗くと、向こうから何かが来る。
動きがおかしい。
宙を浮いているように見える。
音もなく滑らかに、庭の方からスーッとこちらへ寄ってくるのだ。
石庭の玉砂利の筋はきれいなままだ。
足を動かしている気配がない?
そこで腕一面にさあっと鳥肌が立っていることに気付いた。
顔には面を着けていた。
平らな紙のような面、だがその動きの早さにも関わらずふわりとも動かない。
時間も空間も固定されたようにすうっとただ移動してくる。
真っ白な面のおもてには墨の痕も黒々と、形は御朱印のような模様が描かれている。
春日の権現さまに似ているがもっと複雑だ。
近付くにつれ背の高さが想像よりはるかに大きいことに気付いた。
誰ひとり言葉を発しない。
鈴の音がどこからともなく動きに添って起こり、唱和する声が地から響く。
唯(ただ)ひとり
唯(ただ)ひとり
奇妙な面と一体化した冠の纓(えい)が細長く後ろに垂れている。
冠と面とは裏腹にゆったりとした装束は真っ黒の洋装に似た上下、幾重にもベルトで固定されている。
大きさとちぐはぐさが異様さを増してぐうっと間近に迫ってきた。
「窓を」
「閉めて窓を」
誰が言ったのかもわからない。
誰も動けなかった。
まっすぐにこちらへ突き進んでくる。
あれほど黒々とはっきりした実体なのに、霧のように松の幹を抜けた。
口はからからに乾いて、言葉が出ない。
それは音もなく窓と壁をすり抜けて部屋に立っていた。
いや、浮いている。
ふと見れば仲間の二人は互いに抱き合って身を伏せ、ガタガタ震えていた。
それは体をゆるやかに曲げて一人一人に何事かをささやいていった。
私も震え、恐怖に動けなかったが、こうやって目の当たりにしてみると、それが悪いものでないことはわかった。
それに善悪はない。
そういう存在ではない。
運命?宿命?
どちらにしても避けがたい。
それがささやいた言葉は、私になんの恐怖も及ぼさなかった。
それは私には呪いでも宣告でもなく祝福のように聞こえた。
よく聞こえない。
待て、もう一度!
口を動かしたつもりだが、音は吸い取られるように鈴の音と地からの唱和にはじかれた。
追おうとしたがそれはふっと窓を抜けて霞(かす)んで消えていった。
鈴の音は最初から無かったように途絶えている。
あったときよりもさらに空虚で、恐ろしかった。
仲間たちは転がるように我先に外へ外へと出て行った。
間口を這うようにして私も続く。
一人は難しい顔を、一人は恐怖の面持ちでいる。
呼び掛けても声が届いていないようだ。
取り憑かれたように走っていく。
「危ないぞ、気を付けろ」
三人三様に下された託宣がある。
彼らのそれは恐怖だったのか。
彼らを追って私も騒乱の外界(がいかい)へ行く。
門を抜けた所で背後を振り替えると、あの広大な庭園を抱えた書院造りのお屋敷は、跡形もなく消えていた。
振り替えるとまた周囲は一変している。
孤児たちを育てている穏やかな人が西洋風の庭の世話をしながら何気なく私にたずねた。
「それであなたはそれに何と言われましたか?」
まるで遠い過去の記憶を問うようだ。
イカオネカスイヲ
あれは何だったのか。
「井か尾根か?すいを…水を?」
あとは思い出せない。
「水源の話だったのかな」
「あなたは聞いた時にどう考えましたか?」
私は考え込んだ。
薄れる前に取り戻そうと記憶をたどる。
「井戸は必要ですが入ってしまうと狭い視界になってしまう。尾根か…屋根だったか?山?登ると視界は開けますがこちらの姿もさらすし危険だと思いました」
すいを…。
すいとは何だろう?
「粋」
粋を極め…極めよ?
「粋とは、私にとって忘れたくないもの。この世の美しさです。例えばこの薔薇のように」
「あなたの魂からの言葉をどうぞ大切に」
いつの間にか大きな薔薇の真ん中に矢が刺さっていた。
火傷したように離れる。
薔薇の精が胸の真ん中に矢を刺したままで静かに言う。
「行く手は別れたので、ここからはあなたひとりです」
振り向くと、平野では多くの人が入り乱れて争い合っていた。
武器を持つ者も持たぬ者も、正規軍も過激派も、民間人も反社会組織も、男女も年齢もすべてごちゃごちゃに騒乱の中で踏みにじられていく。
中に、槍に胸を貫かれて串刺しになっている一人の顔を見た。
共に託宣を受けた友人だった。
彼と同じ運命を避けたもう一人は、自らが助かるために主義主張をひるがえして寝返ったのを見た。
あの二人とまたどこかで会うこともあるだろう。
それは涅槃の地でのことなのかもしれないが。
私はわたしの祝福または呪いを抱いて進むしかない。
あの託宣の主(ぬし)が背後に立っているような気がした。
追いかけて聞きたかった声が自然に耳の中によみがえった。
──粋を極め労苦を厭わず歩み堅固であるように──
祈りよりも強く皮膚に刻まれたこの確信を胸に、私は慎重に先へ足を踏み出した。
終。
2019.7.25の夢
悠