奇禍に遭う 新宿編 3(中編小説)
店員がいつの間にか後ろに立っていた。
さっきのバイトとは違う。
彼は冷たく表情を動かさないまま高圧的に言い放った。
「これは、救急車を呼んだほうがいいと思いますよ」
「そんな、だってすこし酔っただけですよ」
呉が抗弁したが、たかが酔ったとだけ言えなくて北村は唇を噛んだ。
説明する隙も与えず、店員は重ねて脅すように繰り返した。
「救急車を呼びます」
「ちょっと、ちょっと待って下さい」
「呼びますよ。呼びますね!」
「……出ます」
そう言うしかなかった。
店の入り口で一人ががっかりしたような声で言う。
「呼んでもらえば良かったかな」
「酔って吐いたぐらいで呼ばれちゃ救急車もね」
「しかし彼女はもうこのまま引っ越し先へ出立のはずだ。荷物も引き上げたと聞いてる」
その話は北村も聞いていた。だから駅に近い場所を選んだのだ。
今日はそのまま遠方に向かうはず。
泊まる場所がない。
「今病院に運ばれてしまったら、引越し先の荷物の到着に間に合わないかも…到着に合わせてるって言ってた」
「まずいことに旦那さんも出張なんだ」
「でも荷物なんて言ってる場合じゃ…」
「少し…少しだけ休ませてあげられれば」
女子二人がぐったりとしているのをもてあまし気味なのは、冷たいというよりあらぬ誤解は防ぎたい。そんな気持ちが誰にも見て取れた。
何しろ真面目で通ったお堅い業種、まともが正義だ。
つまらないと言われても平凡にまさる幸福はないだろうと聞き流す。
みな郊外にほどほどの値段の一軒家やマンションを持ち住宅ローンを抱えている。遊びに余計な金を使う余裕もない。
そんな連中が顔をそろえておとなしくおしゃべりを楽しむだけの集いのはずだった。
「みらいさんの方はご主人に連絡してみよう。迎えに来てもらえるかもしれない」
瀬尾さんがちらっと時計を覗いたのが見えた。
もともと早めに切り上げるはずの宴、ハプニングで早めに店を出たからまだ少し余裕がある。
誰もが、じゃあお先にとは言いださない。
誤解を招かないよう、最後の一人にならないように固まって、一緒にこの二人を上手に片付けなければならないと思っている。
* * *
ガラス越しにパトカーのサイレン音がすぐ階下から響いていた。
この辺りでは日常茶飯事で珍しくもない生活音なのに、今は妙に耳に刺さっていつまでも消えない。
瀬尾さんと北さんになら任せても大丈夫かな。
いつも面倒事を進んで引き受けてくれる北村なら。
そんな空気があるのは承知していたが、いつもはすすんで引き受ける北村にもあまり居残りたくない理由があった。
最近、妻は少しだけナーバスになっていた。
わずらっている義母にかまけて家の中がおろそかになっていると北村が妻を責めたのは、家事をしろと言うよりも心いっぱいに家庭の中だけに納まっていたそんな妻に戻って欲しかったのだ。
喧嘩の果ての涙と青ざめた顔と不安を承知していた。
二人とも忘れたふりをしてやっと落ち着いて来た頃だ。これ以上不安を煽るようなことはしたくない。
大丈夫、何とかなる。大したことじゃない。
大袈裟に考えすぎだ。
酔った仲間の世話なんて、若い頃から今までだって何十回もあることじゃないか。
終電まではまだ時間がある。
その間にどうにかして胃の中のものを出して、少しでも正気を取り戻してもらうんだ。
それなのに、なぜ?
なぜ、こんなに暗いんだ?
こんなにもいやな予感がぬぐえないんだ?
ファミレスは四階にあったので、一同はエレベーターを待っていた。
開いた中は数名の先客がいる。
雑居ビルだから狭い。瀬尾さんが先ほど吐いて真っ青だったみらいさんに付き添って先に降りた。
エレベーターはゆっくりと階下に降り、また最上階まで上ってしまう。
北村と呉はよう子さんを支えながら残った。
古いビルでいつまでも動かないエレベーターを待つ時間が気が遠くなるほど長く感じられた。
やっと扉が開く。
こんなときに限ってさっきよりも人がいる。
みらいさんに比べればまだましだと思っていたよう子さんがさっきよりぐったりしている。
肩に回した腕にも力が入っておらずぐにゃぐにゃだった。
追い出され、待たされたのが堪えたのかもしれない。
こんな時には普段なら耐え得るようなわずかなことでも打撃になる。
吐瀉物の匂いに、何人かあからさまに嫌な顔をする。
「いやだ。酔っ払い」
聞えよがしに囁くのさえ聞こえた。
北村の横で細くて白い喉がいきなり生き物のように動くのがはっきり見えた。
げぼっという音とともに匂いが広がった。
北村の左腕から胸、そしてカバンにかけてもろに浴びる。
「あっ、北村さん!」
呉が叫んだ。かけられた北村よりも動転している。
北村は上着を手早く脱ぎ、裏返しにしてカバンをくるむと呉に押し付けるように預けた。
狭いエレベーター内で床にへたり込んだ彼女をもう一度、全身で抱え上げて支える。
「降りて!」
鋭い声が飛んだ。
吐くと見て、すぐ下の階のボタンを素早く押していた人がいたのだ。
扉が開く。大きく空いた口に飲み込まれるような暗がりだった。
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