奇禍に遭う 新宿編 4(中編小説)
「降りて!」
「仕方ない。降りよう」
開いた扉から出るとそこは奇妙に薄暗い店のフロアのど真ん中だった。
よう子さんは体を折って、えづきながら胃の中身をすべて搾り出す。
北村は背中をさすった。吐いてしまえば楽になる。
これでもさっきまで耐えていたのだ。
だが場所がまずい。
目を凝らそうとするが、薄暗さもあり動揺もありで視線が滑る。
よく見えない奥の店内から駆け寄ってきた店員を抑えて、責任者らしき男がぐいと前に出た。
怒気を含んだ声を上げる。
「あんたら、何してくれんだこんな所で!」
次第に目が慣れて、一見異様な雰囲気のある店内が浮かび上がる。
会計のカウンター裏にも酒の瓶が並んでいるから、居酒屋であることは間違いないようだ。奥には客もいた。
だが奇妙に暗い。
天井の豪華なシャンデリアの妖しい揺らめき、壁に掛けた絵が見えないほど薄暗いのだ。
分厚いカーペットにも半分、吐瀉物がかかっている。
ここは何だ?クラブか何かか?奥には個室エリアも見える。
男は床を指さした。
「どうしてくれる。こんな所まで汚れちゃったじゃねえか」
北村は呉とよう子さんの前に出て頭を深く下げた。
「本当に申し訳ありません」
背丈はそうない。全体的に四角い印象の男で、店員にしてはいい服装から店長なのだろうと北村は察しを付けた。
男は口を曲げて三人を上から下まで舐めるように睨みつけた。
「何なんだよいきなり。何考えてんだ。信じられねえわ」
「いや、本当にすみません」
わずかに後ずさりすると、後ろ足が呉の靴にぶつかった。
いつの間にか際にまで追い詰められている。
壁が崖先のように感じた。
これだけ声を張り上げているのに、客や従業員に何の好奇のまなざしが見えないのも奇怪だし嫌なことだった。
飲食店のようなのに盆を手に動き回る店員の姿もない。
比較的入り口近くのテーブルに、上質の革張りの背もたれに腕を大きく投げ出し、足を組んでいる客の後ろ姿が目に付いた。
靴先のぬめぬめとした光りがからかうようにひょいひょいと動く。
背中で気配を伺っている。
実に楽しげに。
カウンター後ろにある扉が薄く開いていて、ここにもこちらを伺う気配がある。
よう子さんは最後の胃の中のものを出して吐き疲れたのか、まだ多少えづきながらぐったりしている。
北村は後ろ手を伸ばしてエレベーターのボタンをさぐった。
呉が察して北村の動作を引き取り、押している様子が背中越しに伝わる。
いくつか選択肢があったとはいえ、最初に入ったあの居酒屋をチョイスしたのは自分だ。
北村は責任を感じていた。
どこで何を間違えた?
店ですぐにトイレに行かせてあげた方が良かったか。あのまま道路のど真ん中で吐かせてあげたほうがましだっただろうか。
ファミレスですぐにトイレに行かせてあげればよかった。いう通り救急車を呼べばよかった。
これまでの選択肢は全て間違っていた。
次々に負のループにはまり、これでどこまで落ちていくだろう。
この顛末は一体どうなる。
踏みとどまれるか?ここで。
崖下は真っ暗だ。
* * *
北村は頭を下げ続け、ひたすら謝罪の言葉を述べ続けた。
気味の悪い笑みが男の片頬に浮かぶのを見たような気がしたが、薄暗い照明の下だ。気のせいかもしれない。
店長らしき男は腕を組み、低いがはっきり店内に聞こえる声で言う。
「これ、クリーニングいくらかかるかわかんないな。カーペットだって一枚だけ取り換えるってわけにはいかない。総取り換えしないといけないかもしれねえぞ」
ここの客層は明らかにサラリーマンではないが、こんな口論を暗に娯楽とする気配を漂わせているのが何者なのかなど、むしろ知りたくない。
真っ赤な野獣の口腔にいるように感じた。
よう子さんだけは何とかしてここから連れ出さないといけない。
「全部変えて何百万とかかったらどうすんだよ。払えんのかお前、飲み会か。どこのだよ。名前は。社名はよ」
そこでがくんと音がして、扉が開く音がした。やっとエレベーターがもう一度来たのだ。
後ろを振り向かないまま北村は手まねで促し、呉はぐったりしているよう子さんを抱えて中に入る。
「何逃げてんだよ」
肩で阻むように前に出た男の前に、胸が擦り寄るほど立ちはだかって北村はエレベーターの入り口を塞いだ。
「すいません、ここにいられないんで。また吐いちゃうかもしれないし。これ以上ご迷惑おかけしちゃうわけにもいかないんでちょっと外に出します。僕、残ってますんで。いいから行ってください」
最後の言葉は後ろに向かって言ったのだ。
呉がエレベーターの中から援護射撃のつもりか声を張り上げた。
「彼は別会社の人なんで関係ないんですよ」
聞こえるか聞こえないかぐらいで扉は閉まった。
店主は腕を伸ばす素振りを見せたが、エレベーターのボタンは北村の手が覆っている。男の顔が険しくなった。
下降音を確認して北村は片膝を付くと、胸ポケットからハンカチを取り出した。
汗を吸いやすくざらついた手触りの綿、妻が用意した中でも特にお気に入りの一枚だったがかまってはいられない。
吐瀉物を素手でかき集め、ハンカチで床をすべて拭き清める。
店長らしき男は店員に雑巾を持って来させるでもなく、ただ腕組みをして目の前に突っ立っていた。
ゆっくりと出来る限り丁寧に拭き終わると北村は立ち上がり、胸ポケットに汚物を包んだハンカチを突っ込んだ。
唇を噛んですえた臭いに耐えながらもう一度頭を下げる。
「本当に申し訳ありません。どうも酔っちゃったみたいで」
男はさらに低い声で答える。
「だからどうすんだって言ってんの。どんだけかかるのこれ。こんな吐いちゃって。悪い菌が混じってたらどうすんだよ。乾いたら店中に蔓延すんぞ。消毒だって必要になるだろうが。飲食店には死活問題だぞこれ」
何を言う。酔っ払いに嘔吐に喧嘩、てめえら飲み屋をやってりゃ日常茶飯事だろう。
…なんて言うわけにはいかないからまた頭を下げる。
相手が被害者なのは間違いない。何も悪くないのだ。
胸元からむっと臭気が漂う。
頭を下げるたびに靴の汚れが目に付いた。
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