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ドリトル先生航海記、岩波少年文庫 ~岩波書店に感謝と応援~


下の子がドリトル先生航海記を読み始めてくれた!
やはりこのような「本っぽい本」は訓練が必要。
入り込むまでのハードルが高い。

「航海記」では、これまでドリトル先生を主人公とした三人称形式で進んできた物語がいきなり、助手のスタビンズ君の一人称形式に移行する。(ホームズにおけるワトソンのようなものだ)
このスタビンズ君に子供はちょっと戸惑う。
存在を受け入れるまでが長い。

井伏鱒二の訳したドリトル先生シリーズが岩波少年文庫で復刊された時、迷わず箱買いした。

なぜわざわざ、ヒュー・ロフティングのドリトル先生と言わず井伏鱒二と付けたかというと、最近はつばさ文庫から新訳も出ているからだ。
わたしは大きな読みやすいシリーズを愛読していたが、文庫は手に取りやすい。持ち運びも便利だ。

岩波書店さん、いつまでも売っていてくれて本当にありがとう!

しぶる下の子に、私のイチ押しの「ミランダとチープサイドのやらかし・ターン」まで頑張ってもらった。

下の子、最初はいまいちのノリだった。

家政婦のダブダブ(アヒル)が一体どうやって家事をしているのか。
両羽で運んでいるにしても、羽の力が弱すぎないか。
床を履くとすれば、自分の羽を使うのは不衛生ではないか、などなど考察していた。

来た!となったのはやはり「世捨て人のルカ・ターン」。
いぬ裁判だー!

本当に訳が上手い。
下の子、きゃっきゃと何度も笑っている。

ついに出た。
スズメのチープサイドが、紫ゴクラクチョウのミランダにいちゃもんをつける。
ガラの悪い貧乏な都会ヤンキーが着飾った金持ち田舎者を脅すイメージ。

「てめぇ何チャラチャラしてんだよ、あ?」
(注:そのようなことは本文に書いてございません)

スズメのチープサイドは全編通して実にかっこいい。
生粋のロンドンっ子の設定なので、勝手に江戸っ子のべらんめえな感じで想像していた。

チープサイドは、悪いことをしたのだと思われまいとして、いばって出てきました。
「あれは、なんでもないことなんです。あの鳥は、まるでじぶんの領地にでもきたように、どっさりとはでな着物を着て、すましこんで庭にはいってきたのです。そのとき、ぼくはじゃり道でパンくずをひろってたべてました。ロンドンのスズメだって、あんなものには負けません。あんなぴかぴかの、あくどい衣装をつけた他国者なんか、ぼくはどうしても尊敬することができません」

今読むと、「自分の国に帰れば?」みたいなことを言ってる。(移民を嫌う低所得者層みたいだった)
だが、かっこいい。

その頃わたしは、「二次元推しリスト」とでもいうべき、小説・漫画・好みの男性リストを持っていたのだが(黒歴史)チープサイドは名前をしっかり連ねていた!
だって、自分の何十倍もあるような鳥に向かって行き、いじめて追い返すんだよ?すごい度胸!

ドリトル先生が言う。

あれは町の鳥だよ。だから生きるために一生涯けんかをしてなくっちゃならないんだ。

きゅん…♡

もうそこからは下の子も一直線。手放そうとしない。
やっと「物語に入って」くれた!
この感覚が大切で、成功体験とでも言いますか、「冒頭で我慢していたけど、よいと言われている本はやはりほんとうに良かった」という読書体験は必ずあとで実となり花になる。

突然叫ぶ。
「ペピト死ね!ドリトル先生を知らないなんて…!死刑!」
「死ねとか言わないで。言葉遣い!」
「だってペピトだよ!?」
「誰やねん」
「え!?」

下の子、信じられないような顔でこっちを見る。

ペピトを知らないの!?ペピト・デ・マラガだよ!」
「あー!闘牛士かー!!」

まるで犯罪者を見るような顔をされた。傷つくわ。
フルネームで闘牛ターンだと思い出しただけでも偉いわ、自分。

わは!と笑っている。
「ポリネシアすげえ!」
下の子はとにかく宝石やキラキラしたものが大好きだ。
「花なんて拾わなくていいから宝石はひとつ残らず、だって!花なんて、だって!
そ...そこがツボなんだ…。

闘牛の勝負に投げ込まれる贈り物の絵面はもう、羽生くんとプーさんしか思い浮かばないよ。
読んでない方、ぜひお読みください。面白いですよ!

下の子はバンポが大好き。
棒をふりまわして追手を撃退したり、石頭だったりする所、笑う笑う。
ひっくりかえって笑う。

「面白いでしょ!」
こちらも一緒になって笑う。
幸せだよ…。長かったよ。アフリカ行きはすらすらっと読んだけど、航海記はなかなか読もうとしなかった。

実はグーテンベルクでもドリトル先生は数冊UPされているのだが、数が少ない。

売れるからなのか、ポリコレ棒に叩かれているのかちょっとこれはわからない。
バンポの描かれ方はかなり微妙だと思う。
栄えある第一巻の「アフリカゆき」もこの話「航海記」も、結局「先進国の白人が未開地を訪れ、記述と科学で神とあがめられるか悪魔と恐れられる」という、ひと昔前にはよくあったテンプレに添った内容だ。

文庫の最後にも、これについての記述はきちんと載せてあった。

あらゆる文学作品は、書かれた時代の制約から自由ではありません。(中略)第三者が故人の作品の根幹に手を加えることは、著作人格権の問題をこえて、現在の人権や差別問題を考えていく上で決して適切な態度とは思えないこと、古典的な文化遺産をまもっていく責務を負う出版社として、賢明ではないと考えるからです。

しかしだ。
英語版では、「アフリカゆき」と、「緑のカナリア」を読んだのだが…。
正直、原作はかなり微妙だった。平凡…?

ドリトル先生のアイデアは素晴らしいし、目の付け所は面白い。
だが、同じ児童文学の作品でも「小公女」「秘密の花園」のバーネット夫人や「砂の妖精」のネスビットさんのような英語で読んでいての格調高いリズムや面白さは今一つ…のように感じた。好みかもしれないが。
(アリスはやはり異次元の存在ですべてが完璧な名作)

かといってもちろん、ダメなわけじゃない。
井伏鱒二の訳が素晴らしすぎるのだ。

あまりにも素晴らしく、子供が世界に入り込むように訳されていて、ユーモラスでリズミカルで楽しいため、原作がそのイメージを超えることができないのだ。

同じことが、お気に入りの絵本数冊にもあった。
昭和時代の翻訳は、流れるようなリズムが美しかった「文語」に触れる時代に近いため、知識人の文章、翻訳は本当に素晴らしい!!

特にその表現力が花開いているのは昭和時代の児童文学小説だ。

簡単な文章の方がずっと難しい。
修辞をひねくり、それっぽい文学表現をすることは慣れてしまえば意外と出来る。
大切なのは、語るべきものが自分の中にあるのかどうか、伝えたい何か、伝えなければならないと感じる何か、があるのかどうかだ。

簡潔にわかりやすく、奇を衒わずに哲学をこめ、あふれるばかりの子供たちへの愛、人間愛をこめて書かれたこれらの昭和児童文学はまったく古さを感じさせない。


井伏鱒二をほめあげたが、つばさ文庫の方から出ている新訳もなかなかのものだ。

正直、一読してこちらの方が原作のイメージには近いと思った。
井伏鱒二がすごすぎるのであまりにもそれ単体で名作になってしまっているが、すでにとっつきにくくなってしまっている表現も確かにある。

チープサイドはミランダに「ショーウィンドウにでも入ってれば」と悪口を言うのだが、井伏鱒二の訳は「夫人装身具店の陳列窓」だ。

現代の子供はつばさ文庫からの方が入りやすいかもしれないし、面白いと感じるだろう。(下の子は母のこだわりの犠牲になってもらった)

せっかく英語版が無料公開されており、オーディオまでついているのだ。
井伏鱒二版、河合祥一郎版、オリジナルを比べて英語を学ぶのもまた英語教育になっていいかもしれない。

オーディオは「アフリカゆき」のみ。



本棚の一つに、岩波少年文庫のお気に入りを詰め込んでみた。

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古ぼけているのが私がいまはもうない実家から持ってきたもの。
ぱっと目についたものだけ棚に集めてみた。
リンドグレーンはありすぎてとてもとても入りきれない。
「ミオよ、わたしのミオ」は断念した。「チポリーノの冒険」も入っていない。「十八番目はチボー先生」…あー!!無理!入りきれない!

「西遊記」(呉承恩作、伊藤貴麿編訳)はびっくりするほど格調高く、だがユーモラスで歴史ものへの入り口として面白い。
戦闘に戦闘を重ねるジャンプ形式の流れなのだが、この拡張高さは下手をすると歴史小説より上だ。

哪吒太子はかっと怒り、たちまち三面六臂の荒神となり、手に手に斬妖剣、砍妖刀、火輪児、その他六通りの武器を、水車のようにふりまわして打ってかかった。
悟空はこれをみてひそかにおどろき、
──この小童め、かかる手段をろうするとは!いで、わが神通をみよ!──とばかり、かっとさけぶとかれもまた三面六臂となり、おなじく金箍棒(如意棒)を三本に変じて立ち向かい、両々おとらず、火花をちらしてうちあい攻めあった。

ヴィーヘルトの「くろんぼのペーター」。国松幸二訳。
また別記事で紹介したい、絶版になっている名著。

なるほどあなたには、わたくしたちを殺す力がおありです。オオカミに羊を殺す力があるように。
でも、あなたは、わたくしに罪がないということをご存じですから、よろこびがあなたの胸をみたすことは、もうないでしょう。
やすらかな眠りが、あなたの目をとじることはもうないでしょう。
無邪気な子どもが、ものおじせずにあなたの足もとに座ることは、もうないでしょう。
わすれないでください。
もうないということを。

このシンプルさ。
物語の形となって入ってくることに意味がある。


この本棚の中には、ずっとずっと、私が子供だった頃から未来の子供たちに絶え間なく語り続けている声がある。
その声は、私の子供に届き、私の中に眠る子供の心にも何度でも届く。
語り掛け続ける。

どう育って欲しいのか。
この世界をどのように生きていくべきなのか。
ほんとうにたいせつなこと、は何なのか。

このような本を出版して下さり、またずっとクオリティを維持し続けて販売し続けている、「岩波書店」さんを全力で応援したいと思います。


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