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奇禍に飛び込む 御徒町編 5(中編小説)



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「わたしがそれ以上の値段で落札すればいいってことですか?これ、即決に変えてもらえません?」
「即決、即決ねえ…」
 
男はもぐもぐと口の中で言いながらパソコンをいじって入札を確認する。
いくら確認しても値段は同じはずだ。
どうすれば一番儲かるか、この客がなぜこんな明らかなきず物のジャンク品を欲しがっているのか、どうすれば高く売りつけられるのか考えている。
男は大きくため息をついた。
 
「ああー、1円かあ...」
 
そう1円。私は知っている。
何かを言いたそうな素振りで朋子は体を動かながらカウンター越しにパソコンの方へ身を乗り出す。

どうしても譲らない彼女の気配を見て、素早く男は決心した。
これ以上粘っては何か都合が悪いことが起きる。
動物的な本能が働いた。
 
「ええと…一万円で!一万円でお譲りします。さてね…どうしよう。どうすれば?」
 
そこで迷っているのが思わせ振りなのか、本当に混乱しているのか朋子にはわからない。ただ嬉しくて飛び立ちそうだ。

朋子も男と同じように、あれこれ考えていた。
時給1000円、二日分!それがこの品の値段ならば、安すぎるとさえ思った。
十九万相当の品?亀裂と曇り? 1円の入札?
鋭く突っ込もうと思えば口実はいくらでもある。

だが、それが彼女の手に戻る可能性そのものが、朋子の目をくらませて見えなくした。
明るく陽気に言う。

「1万円で!分かりました。1万円をお支払いすればいいの?」
「そうですね」
 
男はまた迷った。何を迷っているのか。
朋子の手の中ですっかり汗ばんだプリントがまた握りしめられた。
 
「これオークションを取り下げると550円で手数料がかかっちゃうんですよ」
 
そういうこと!
朋子はほっとした。そして茶目っ気たっぷりに言った。
 
「550円ぐらい大丈夫。おまけでお払いしますよ?」
 
すると男はまた迷い、カチャカチャと何かをパソコンで探っている。
 
「今ね、オークションを取り下げて即決で出しました。10550円です。そこから落札できますか?」
 
何だ、現金じゃないの?
朋子は疑問に思う。
どうしてそこまでオークションにこだわるのだろう。
あくまでオークションに出した品は取り下げて売ったのではなく、オークションで販売したということにしたいのだろうか。

でも何でもいいわ。
 オークションの即決価格なら、金額が折り合えば早い者勝ちで落札できる。

「じゃあ今これをここで落札すればいいの?」
 
彼女は目の前でスマホの画面に触れた。
入札者の情報から今出たばかりのオークション情報に切り替えると、確かにそこには目の前の指輪が10550円と出ている。

即決で落札、手渡しを選択。
彼女の住所が知られることはない。

「こんな目の前でネットオークションを落札するなんて、わたしはじめてだなあ」
 
男は愛想笑いをした。
 
「商品受け取り。押しました」
 
クリックしてこれはおまけだ。評価も目の前でつけてやる。
 
「最高評価ね。ありがとうございました!」
 
これはもういらないわ。プリントしたけれど。
何度も力を入れて握りしめていたので皺が寄った日記を、最後にこの男に渡すかどうか朋子は迷った。
それから店のすみにゴミ箱があるのを見つけ、するっとまるめて中に滑り込ませるように投げ込んだ。

もういいの。だってこれはここにあるんだもの。

夫は知っていた。戻ってきて欲しがっていた。
ずっと彼女は上の空でいた。思いは遠くに漂い、視線はただ空を見つめていたから。
今やっと取り戻した。
どこかに行ってしまっていた心を、この掌の中に握り締める。



*  *  *


2019-7-24
#ブログ #日記

雨が続いていましたけど、今日はちょっと晴れました。
母の事故は、結局入院となりました。
 
母の記憶障害も急速に進んでいます。
認知症の診断を受ける頃には、母は『物盗られ妄想』と呼ぶ疑心暗鬼にさいなまれることがありました。

母の場合、宝石に激しい執着がありました。
すべての指輪をケースからはずしてしまい、小さな袋に入れてチャラチャラと鳴らしています。
小さなサファイアと大きなエメラルドもありました。
少しでも手を伸ばせば、ぎょろりとにらみつけます。
白目に赤い筋が入り、黄色く濁った眼、それはもう母の姿ではない別の生き物のようでした。

あまりチャラチャラと鳴らすので、ダイヤは台座から落ちてしまいました。
ほうけているようで何を見ているのかわからない視線がさまよいます。
取り上げると泥棒!泥棒!と騒ぐので、誰も触ることが出来ません。
その袋の中にはダイヤよりも何より、私が一番気になっている指輪がありました。

 メキシコオパールの指輪です。




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