超短編小説|消えた文字
文字が消えたのは、夜中の0時を過ぎた頃だった。
ソファに寝転んで、スマホでニュースを見ているときにそれは起こった。読んでいる文字がとつぜん見たことのない文字に変わった。子供が殴り書きをしたような文字だった。それは文字というより、何かの模様と言うべきかもしれない。
不意に起こった出来事に初めはどう対処すればよいか分からなかった。こんなことは生まれて初めてだ。わたしはスマホを逆さにしてみたり、目をギューッと閉じてみたり、電源を点けたり消したりしてみた。それでも、元の文字が戻ってくることはなかった。さっきまで読んでいた文字は、もうそこにはなかった。
日本語が消えたのは、スマホの画面からだけではなかった。身の回りに存在するあらゆる日本語が消えていた。棚に並んだ本も、壁に貼ってあるカレンダーも、机に置かれたチラシも、全てが得体の知れない文字に変わっていた。
疲れているのかもしれない。今日は遅くまで仕事をしていたし、きっとそうだ。そういう可笑しな日が一日ぐらいあっても、けっして不思議ではない。短絡的なわたしはそう思って、ベッドに飛び込んでぐっすりと眠った。
けれど、明くる日も、また明くる日も、文字は元には戻らなかった。初めは、何かの病気なのかと疑った。けれどどんな病院へ行っても、医者たちは「特に異常はありません」の一点張りだった。わたしはこの状況を全て受け入れるしか方法はなかった。
わたしは、新しい文字に少しずつ馴染んでいった。
生活の支障にならない程度には過ごせるようになった。それでも、奇妙な文字を完ぺきに読めるようにはならなかった。けれど、たとえ文字が理解できなくても、その言葉が発せられれば、わたしは日本語を理解することはできた。スマホは、あの日からパタリと見なくなった。
あれから1週間くらいが経った。わたしは仕事を終えて会社を出ると、外はもう秋だった。軽く伸びをして、深呼吸をする。秋の匂いがした。ひんやりと冷たい空気がわたしの身体に取り込まれていった。わたしは早歩きで見慣れた電車のホームへと歩いていく。
秋はなんでもありだ。
色々なことに挑戦したい。棚に置かれた読みかけの本を読破したいし、美味しいものもうんとたくさん食べたい。わたしの生命力がみなぎっていく。
秋は鍋みたいだ。
さまざまな感情がごちゃ混ぜになる。焦りとか寂しさとか喜びとか、そういった感情が胸の底から湧き上がってくる。わたしはそんなことを考えながら、電車に揺られていた。
電車を降りると、外はすでに真っ暗だった。空を見上げると、星がきれいだった。けれど、空に浮かんでいる星々も今はもう消えてなくなっているのかもしれない。そう思うと余計に感傷的になる。
家に帰ってくると、芋炊きを食べた。
それは鶏肉や里芋、こんにゃくなどが入った鍋料理だ。愛媛の郷土料理で、秋になると母がよく作ってくれた。秋は里芋の美味しい季節である。
それから、わたしは暖かい湯船に浸かり、ソファーに座ってくつろぐ。ひんやりとした空気が窓から入り込んでいる。わたしは棚から読みかけの本を取り出し、殴り書きしたような文字を追っていく。過去に読んだときの記憶を辿りながら、外国語みたいに難しい文字を考古学者みたいに読んでいく。
わたしはそんな生活を1ヶ月も送った。
そんなある日、奇妙な文字はとつぜん馴染みのある文字に戻った。まるで遠くから誰かがスイッチを押したみたいに、本のページの文字が一瞬で切り替わった。棚にある他の本も、壁に掛かったカレンダーの文字も、机の上に置かれたチラシの文字も、すべて私の知っている言語に変わっていた。
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いま振り返ってみると、あの1ヶ月間はほんとうに不思議な時間だった。けれど、全てが非日常的な出来事ばかりではなかったと思う。
きっとあの経験がなければ、わたしを取り巻く世界の光景や、忘れかけていた世の中の些細な変化や、かけがえのない小さな幸せに気がつくことはなかったと思う。
だから、わたしは文章に残しておこうと思う。あの頃に抱いた大切な感覚を忘れないためにも。
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