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超短編小説|見えない糸

『見えない糸』という小説を書きました。ショートショート(掌編小説)なので、5分くらいで読めると思います。

 僕が見えない糸に気づいたのは、引っ越してから3日日の朝だった。その日はひどく疲れていて、体がものすごく重かった。それなのに、ベットから即座に起き上がり、部屋を軽やかに動き回って、家事をこなしていた。まるで上から見えない糸を吊るされて、操り人形になったみたいだ。

 掃除や洗濯を終わらせてソファに腰を下ろすと、全ての疲労感が僕を襲った。見えない誰かに体を操られ、労働を強制させられたようなものなのだから、それも無理はない。

 僕はサイドテーブルに目をやると、見慣れない本が置かれているのに気づいた。僕の本ではなかった。なぜ知らない本がここに置いてあるのだろう。僕は手を伸ばし、一冊の本を手に取った。

 それは図鑑のように大きな本で、ページがはらはらと落ちてきそうなくらい、もろかった。表紙には『マリオネット入門』と書かれている。マリオネット人形を扱う際の手引書だった。

 1ページ目を開くと、世にも不気味な挿絵が描かれていた。

 糸を吊るされている人間。それを操っている大きな手。人間の手足には番号が振られており、その隣には奇妙な文字が添えられていた。

 何が書かれているのかは想像もできないけれど、世界を揺るがす驚くべき内容であることは確かだった。本を開いているあいだ、僕の背中に張り付いた見えない糸がまるで釣り糸みたいに、ぴくぴくと動いていた。

 この恐ろしい状況を一刻も早く誰かに伝えたかった。僕はライターだった。記事にしたら面白いかもしれない。みんなクリックしてくれるかもしれない。バズるかもしれない。そんな いやしいことばかりが頭に浮かんでしまう。

 上手く伝える手立てや見通しはなかった。きっと頭がおかしくなったと思われるのオチだと思う。積み上げた信頼は、きっとドミノみたいに崩れていくだろう。積み上げるときよりも崩れるときの方があっという間なのは、ドミノも信頼も同じだ。僕の体はマリオネットみたいになって、こんなにも自分のものでないのに。

 乾燥機の終了の合図が部屋中に鳴り響き、僕はソファから立ち上がった。体にまったく力が入らない。左右の足がうまく連携が取れない。僕は酔っ払いの千鳥足みたいにふらふらと左右に揺れていた。それから背中の糸が引っ張られて、僕は後ろに倒れ込んだ。幸いそれがソファーだったから、まだ助かった。長時間座っていたその場所には、ほのかに温かさが残っていた。

 操り人形。奇妙な挿絵。マリオネット。大きな手。この家に引っ越してから、何かがおかしい。このままでは、僕の体はバラバラに崩れてしまうかもしれない。何とかしなくては。

 僕はふたたびソファーから立ち上がると、背中の糸が後ろに引っ張られるのを感じた。僕はそれに抵抗して、前へと進んでいく。台風の日に街を歩くような、ひとり綱引きをしているような、そんな気持ちに苛まれていく。

 それから僕の体は右へ行き、左へ行き、また右へ進んだ。初めて自転車の補助輪を外した子供のように、僕の体はぎこちなかった。

 僕は乾燥機に向かうまでのあいだ、一筋の明かりが照らされているのが見えた。満月だ。窓から月明かりが差している。僕は光に吸い寄せられる虫のように、窓に近づいていった。

 近づけば近づくほど、辺りは暗くなっていった。おかしい。光が照らされているはずなのに、僕のいる場所だけが影のような薄暗い雰囲気をまとっていた。

 どんなに動き回っても、その影はついてきた。頭上には大きな手がある。そう思うとぞっとした。しかし上目遣いで天井を見つめても、巨人の姿はどこにもなかった。糸のような物も見えなかった。真っ白い壁が広がっているだけである。

 ふとサイドテーブルに目を向けると、さっきまで読んでいたあの大きな本が消えていた。きっと巨人はあの本を手に取って、熱心に読んでいるのだ。今がチャンスかもしれない。

 僕は勢いよくドアを飛び出し、階段を下りて、建物を出た。全速力で駆け出した。走っているあいだ、左右の足が連携を取り戻しているのを感じた。糸は自然と消えていた。さっきまでの わずらわしさが嘘のようだ。

 その後も、あの家に戻ることはなかった。ライターの僕としては、もう一度見てみたい気もするが、あそこには近づきたくはない。今は新しい家でのんびり暮らしている。

次に読むなら

やせいの火の玉が、あらわれました。突然あらわれました。スーパーまで歩く途中、僕は見つけてしまったのです。僕は火の玉をじっと見つめて観察しました。そしたら、正体はアレだったんです。ちなみに、これは実話です。
興味のある方は、ぜひ記事をご覧になってみてください。

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