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明日へ向かって 52

 森下さんは、どの辺りで観てくれたのだろうか、そもそも本当に観に来てくれたのだろうか。
 啓大は打ち上げの席でビールジョッキ片手にそんなことを考えていた。
 自分たちのステージを終えて楽器や機材をジェイの車に運び込んで、東京からのゲストバンド、ホーリーワークスのライブを観にフロアーに入った。海外ゲストのROSは、啓大がかねてからの大ファンのバンドであったため、我を忘れて観入っていた。そうするうち、ついにフロアーで希美の姿を見つけることはできなかった。会ったからといって、何か話があるでもなかった。ただ一言、観に来てくれたことの礼が言いたかった。
「バリアツイって」
 アキラがまた上半身裸で啓大のところへやって来た。アキラは昼夜問わず裸になって鍛え抜いた筋肉を見せびらかした。それに酔いが加わると必要以上に大きな声を出すので、打ち上げのときはいつもアキラからできるだけ離れたところで飲むようにしていた。「何だよ。うるせえよ」
 啓大は手で蠅を追い払うようなしぐさをした。
「いや違うねん、テツオに啓大呼んでこいって言われてん。バリアツイから」
 バリアツイは、もういいって、啓大は心の中で呟いて重い腰を上げた。
 テツオはホーリーワークスのメンバーと一緒にジョッキを交わしていた。
「啓大、デイヴさんが俺たちと一緒にCD出さへんかって」
 デイヴさんは、ホーリーワークスのギターボーカルである。デイヴとはいっても、生粋の日本人、あくまで芸名である。
 促されるままにテツオの隣へ腰を下ろし、話を聞いた。ホーリーワークスは、東京に自主制作レーベルを持つバンドである。バンドがCDを出す手段としては、大きく分けてふたつある。ひとつは、メジャーレーベルと契約し、CDを発売する手段、いわゆるメジャーデビューである。もうひとつは、自主制作でCDを出す手段、これをメジャーに対してインディーズと呼ぶ。
 ホーリーワークスは、つい数年前に自前のインディーズレーベルを立ち上げた。彼らのレーベルからすでにいくつかのバンドも活躍していることは啓大も知っていた。しかも、彼らと一緒に出せるというのであれば、願ってもない話である。
「オムニバスの企画も計画中だし、それか、うちと一緒にカップリングなんてのもいいかもしんない」
 オムニバスCDとは、いくつかのバンドが一曲ずつなど参加し、一枚のアルバルを作成することであり、カップリングとは、ホーリーワークスとモスキートーンの二バンドで一枚のアルバムを作ろうという提案である。
「レコーディングは、東京まできてもうらうことになるけど、いい?」
 デイヴさんが、直々にプロデューサーをしてくれるという。
 メンバーでおそらくこの提案に反対する者などいないだろう。いや、諸手を挙げて賛成するはずだ、と啓大は思った。テツオがみんなの顔を見渡した。いつの間にかアキラもジェイも啓大の隣に座っていた。皆、小さく頷き、テツオにイエスの信号を送っていた。
「啓大、いけるか」
 テツオが啓大に答えを求める。アキラとジェイの視線が自分に集まるのを感じた。いまこれを断る理由など何も見当たらなかった。
「もちろんだろ」
「じゃあ、決まりだな。デイヴさん、よろしくお願いします」
 テツオがそう言って頭を軽く下げた瞬間、アキラとジェイが両手を挙げて奇声を発した。
 何事かと、周囲から一気に視線が集まる。居酒屋店内のざわめきがほんの一瞬だけ止まった。
「こら、うっせえよ、アホ」と言ってテツオがアキラの頭を小突いた。
 店内がまた元通りの喧騒を取り戻したところで、今度は少しトーンを落として皆でグラスを合わせた。
「カンパーイ!」
 グラスの触れ合う音は連鎖し、バンドマンたちは次々と祝杯を上げていった。

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