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明日へ向かって 59

 大阪地方裁判所にて、薬害メイセン西日本訴訟の第一回裁判が行われた。これまでにメイセンの副作用による死亡者数は、三百名を超えたことにより、いまやメイセンは薬害問題の渦中へと引きずり出された。
 被害者団体は、新聞や雑誌、テレビのドキュレンタリー番組にも出演し、メイセンの製造中止を訴えた。アメリカ食品医薬品局、いわゆるFDA(Food and Drug Administration)がメイセンに抗がん剤治療の延命効果はない、と公表してからはパッシングもより熾烈なものとなっていった。
 被害者団体の対する訴訟相手は、規制当局たる国と製薬会社であったが、紙面に踊るのは、三河製薬・薬害の二文字だった。
 裁判の争点と目されたのが、メイセンの開発段階における副作用の過小評価であった。臨床試験において何人かの被験者に今回問題となった副作用が顕れていたにも関わらず、それを過小評価した三河製薬によって被害は生み出されたというのが被害者団体の主張する訴えであった。
 過小評価は、単なる見落としではなく、作為的な隠蔽ではないかとする見方がマスメディアでも強かった。当然、三河製薬側は現在の規制に則って開発は進められたこと、副作用報告についても落ち度はなく、隠蔽など事実無根として被害者団体の主張を真っ向から否定した。
 しかしながら、一方で三河製薬は、あらゆる活動を自粛していかなければならなかった。すでにテレビコマーシャルなどの広告は取りやめていたが、宴会の予約に会社名を使うことを禁ずる他、公の会合の出席にも制限が設けられ、社員個人の飲み会にも自粛が求められるなど、プライベートに関わるところにまで影響は及んだ。

 年末を控え、高津製薬と三河製薬の会議も大詰めを迎えていた。合併後の組織統合をどうするかについての論議が役員会で積み重ねられ、ひとつひとつに決断が下されていった。
 薬物動態研究所は、三河製薬の静岡にある薬物動態研究所に統合されることが決まった。これにより、大阪にある高津製薬の薬物動態研究所は閉鎖が決まった。だが、高津製薬の大阪研究所自体がなくなってしまうということではない。建物はそのまま残し、大阪研究所は、医薬品製造の拠点として、製剤研究所に生まれ変わる方針が打ち出されたのである。

 年末の慌ただしさに追われるがまま年内のデータをまとめているうちに、希美は仕事納めの日を迎えた。夕方の五時も過ぎ、日が暮れるとひとりまたひとりと、よいお年をと挨拶してはいつもより少し早めの帰宅に入っていった。長原は家族旅行があるといって今年はすでに一足早く休みに入っていた。
 希美はひとも疎らになった居室を見渡した。そこで、ちょうど視線を上げた榎本と目が合った。
「今年もお疲れさん」
「はい、こちらこそお世話になりました」
「今年は、森下さんのおかげで、風土改革活動の元年になったね」
「いえ、とんでもないです」
 思えば去年の秋に突然浜松への出張を、榎本から命ぜられて、オープンディスカッションと出会った。
 社内でオープンディスカッションを始めるために、榎本から預かった文案を基に案内状を作ったことが懐かしく思えた。そして、初めてのオープンディスカッションで二十二人ものひとを集めたのも、いまからちょうど一年前。これまでに十回ものミーティングを重ねるうち一回は三河製薬との合同ミーティングも実現できた。
 回を重ねるごとにミーティングへの参加者は減り、心細く思ったものの、この一年を振り返ってみると、不思議に一年前には想像すらしてなかったような展開を見せているということに希美は思い当たった。

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