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輪島らんブルー

 ギリシャリクガメのしいちゃんがこの世を去った。

 正確な年齢は分からないが、しいちゃんを日高先生から譲り受けたのは、僕が社会人になった二〇〇〇年のことだからもうかれこれ二十年以上経ったことになる。

 二〇〇〇年は、ちょうど就職氷河期だった。就職には苦労した。そんな様を見て、二浪もしてしょうもない大学に入った挙句、留年までするから当然の報いだと父と兄からさんざん笑われた。

 かつての僕は神戸から東京にある美大を目指して浪人していた。結局は、絵の道をあきらめてまったく違う道へ進んだ。そのきっかけを与えてくれたのが日高先生だった。

 二回目の浪人の夏、僕はひとり輪島にいた。輪島を訪れたのも初めてなら、ひとり旅も初めてだった。とにかく神戸という町から離れたくて奥能登へ逃れる旅を思いついた。両親には東京で美大専門の夏期講習に行くと偽って旅費を工面した。

 金沢の町並みも気に入ったが、どうせならもっと先へ行ってみようと無計画に飛び乗ったバスの終点が輪島だった。

 夏の輪島海岸の駐車場で僕は絵を描いていた。駐車場は海岸から切り立った小高い位置にあって、どこまでも青い空と波の向こうに山の稜線から水平線へと延びる岬は壮大なパノラマだった。僕は輪島の海を描いていた。海は透き通った青ではなく灰色が濃く支配する鈍色だった。パレットの上で色と悪戦苦闘しているうち、気がつけば絵は吹き飛ばされていた。

「ほう、こんな風に見えるがけえ」

 後ろを振り返ると、白いTシャツに青い短パンを履いて麦わら帽子をかぶった四十半ばの小柄な男が僕の絵を持って立っていた。燦燦と陽が降り注ぐ輪島の海岸で腕は白く浮かび上がって、どことなく気品が感じられた。

 男の左の足元には赤い紐につながれた体長三十センチほどのトカゲが這いつくばっていた。一目見て、フトアゴヒゲトカゲではないかと思った。子どもの頃から興味はあったが、実物を見たのはそのときが初めてだった。

「いやなあ、そこのトイレに入っとったら絵が飛んでいったがが見えたさけえ」男は怪しい者ではないことを口ぶりで示しながら、地面からトカゲをひょいと持ち上げた。
 トカゲは足も尻尾もだらりとしたまま、自分が持ち上げられていることにもまるで無関心だった。顎のトゲが恐竜のように勇ましくみえた。

 フトアゴヒゲトカゲですか?と聞くと、男は、おお分かるのか、というように喜んでうなずいた。

「ちょっと抱かせてもらってもいいですか」と僕がいうと、
「ああ、いいわいね」といってトカゲを僕の差し出す両手に乗せた。

 トカゲは思っていたよりもずっしりと重たくて温もりがあった。背中はざらざらとした感触なのにお腹はすべすべとしていい肌触りがした。

 家に子どもの頃から飼っていたミズガメが一匹いた。そのことを僕が話すと、うちにはギリシャリクガメもいるよといった。よかったら見に来るかという誘いに喜んでさっさと絵の道具を仕舞い込んだ。

 海岸から歩くこと十数分、木造二階建ての一軒家だった。妻と三人の娘がいたが、長女が難しい病気を患っているため、家族は金沢に暮らしていた。
「なあんおらんなってしもたさけえ、いまはおれひとりなげ、逆単身赴任やいね」そういって笑った。

 日高先生は、輪島の中学校で理科を教えていた。先生は、自分のことを教師とか先生とは呼ばず、教員といった。先生と呼ぶと、先生は余計じゃわいといわれたので日高さんと呼ぶことにした。でも、内心ではずっと先生だった。

 驚いたのは、家の中に実験室があったことだ。すごいですね、というと、
「なあんたいしたことねよ」と先生はいった。

「たいしたことねえよ」と「なあんじゃあ」が口癖だった。僕が絵の道をあきらめると打ち明けたときも先生はこの二言をつぶやいた。

 リクガメとトカゲの住処は中庭に面した通路にあった。木材と金網でできたゲージは先生と奥さんの手作りだった。夏だったこともあり、ゲージの天板は取り外されていて中が丸見えだった。肝心のギリシャリクガメはいなかった。

「ほら、あそこにおらさるげねえ」

 先生が指さした中庭にリクガメはいた。中庭は六畳一間くらいの大きさでミカンの木が一本と葉の小さな低木が生えていた。カメは低木の繁みに頭を突っ込んでお尻をこちらに向けたままじっとしていた。先生が地面から持ち上げると足をバタつかせた。僕の目の前に向けられると、ひょいと甲羅の中に頭を引っ込めてしまった。

 ゲージ横の出口には滑り台があって、そこから中庭へ出られるよう工夫が凝らしてあった。夜になるとゲージの中に帰ってくるらしい。ギリシャリクガメは「しいちゃん」、フトアゴヒゲトカゲは「らんちゃん」と名付けられていた。娘たちがつけたのだそうだ。

 次の日から、僕はしいちゃんとらんちゃんに会うことを口実に毎日のように先生の家を訪ねるようになった。そのうち、ご飯をよばれるようになり、気が付けば先生と寝食をともにするようになっていた。中学の教員をしていた先生のおうちには昔から先生仲間や生徒が頻繁に出入りしていたということを後から知った。そんな家だったから見ず知らずの僕を泊めることにも何ら抵抗がなかったのである。

 それまで天気のいい日はよく外に出て輪島の景色を描いていたが、先生の家に転がり込んでからはしいちゃんとらんちゃんを描くようになった。中庭にいるしいちゃんとらんちゃんは僕にとっていい題材になった。

 日高先生は、自宅の実験室で貝紫という色素の研究を行っていた。化学史という化学の歴史をたどるというテーマにおいて貝紫を題材に扱っていた。貝紫とは文字通り、貝類に含まれる紫色の色素のことである。

 先生は輪島の海岸に生息するイボニシ、レイシ、アカニシといった貝から貝紫の抽出する方法を見つけた。先生は、中学の教員以外に小中学生を対象とした化学教室を毎月開催していた。輪島や金沢の公民館や学校の実験室で、水の流れから金を採取する、人の毛髪や爪からプルシアンブルーを取り出すといった内容だった。身近にある材料を用いて子どもたちに実験のおもしろさを伝えるというのが先生のこだわりだった。先生は暇さえあれば、実験室にこもって実験を繰り返した。先生のノートには、几帳面な字で書かれた実験のアイデアや図がびっしりと詰まっていた。

 実験室は大人が二人も入ればいっぱいになるほどの小さなスペースだった。薬品棚と実験台、右奥に流しがあった。実験はたいてい何かを燃やすか煮詰めるかをするので、家中に臭いは充満した。たいていは魚や卵の腐ったような臭いだった。

「こんな臭い実験なら子どもらにも忘れられない思い出になりますね」と僕がいうと、
「なあんじゃあ」といって先生は笑った。

 先生が牛のレバーから取り出したというプルシアンブルーを細かく砕いて絵具にして使ってみたことがある。プルシアンブルーは紙の上で淡く、灰色がかった群青を彩った。僕にはそれが輪島の海にぴったりの色彩だと思った。

 先生の家で寝泊まりするようになって一週間ほど経ったある日、先生の奥さんが二人の娘さんを連れて輪島に帰省した。奥さんは、僕の顔を一目見て、「はじめまして、福田さん」といってにっこり笑った。奥さんは小柄で華奢な身体つきだった。家に帰ってくるなり、ちゃきちゃきと片付けや掃除、洗濯など家中を動き回った。先生は、我関せずして、実験室にいないときは書斎にこもっていた。僕は居候の身だったので、奥さんの用事を手伝おうとしたが、子どもらを見といてといわれた。

 先生の娘さんは当時小学三年生と一年生だった。中学生になったばかりの長女は病院にいた。次女はユキちゃん、三女はマユちゃんといった。二人とも色白で都会のいいところの育ちという印象を与えた。彼女たちと一緒にいてはみたものの、男兄弟で育ってきた僕には女の子とどう接していいのか分からず、ただ一緒に本を読んでみたりテレビを見たりして過ごした。

 夜は先生の奥さんが腕をふるってご馳走を作ってくれた。さすがに先生と僕の二人だけのときの食卓とは見た目から味からまるで違った。奥さんの料理は、コースのように前菜から始まり、お刺身、揚げ物と最後にメインがでた。メインは、なんとアワビだった。

 実は、アワビを生で食べたのはこの日が生まれて初めてだった。アワビの刺身を食べてうっとりしているところへ奥さんが、
「次は何食べなさるかねえ」と先生と相談し始めたので、まだ食べられるのかと驚いた。

 次はアワビの味噌焼きだった。奥さんの手料理を食べ終えたとき、酒の酔いからくる心地よい眠気も手伝って、これは夢なのではないかと思ったほどだ。

 すでにユキちゃんとマユちゃんは二階へ上がって眠ってしまった。僕もそろそろと奥さんにお礼を言って席を立った。

「ほんなら、また明日な」先生が右手を挙げて、ひょいと首をすくめた。冷酒で少し鼻の先が赤らんでいた。先生はいつにも増して陽気そうに見えた。

 奥さんは先生の隣に座って同じように冷酒を口にしていた。二人で手にしているおちょこは艶やかな輪島塗だった。本当は寝てしまうのが惜しかった。

 奥さんが輪島にいたのはたった三日間だけで、ユキちゃんとマユちゃんをおいて長女の待つ金沢へと帰っていった。この日から、先生とユキちゃんとマユちゃんとしいちゃんとらんちゃんと僕の生活が始まった。先生は娘たちがいようがいまいが生活のペースそのものはほとんど変わらなかった。姉妹はとても仲が良く二人で一緒に遊んでくれるので、ほとんど世話はかからなかった。僕の描いた絵を興味津々で眺め、隣で一緒に絵を描き始めた。

 しいちゃんとらんちゃんはいくら見ていてもあきなかった。しいちゃんはいつもお気に入りの場所からほとんど動かなかった。らんちゃんは日差しとともに最適なポジションを求めてちょこっちょこと動いた。しいちゃんとらんちゃんの主食は野菜で小松菜やニンジンをよく食べていた。

 先生の証言によると、しいちゃんはごくまれにミミズを食べることがあるらしく、らんちゃんは器用に小さな虫を捕まえて食べるのだそうだ。らんちゃんがしいちゃんの甲羅の上に乗っかかっている光景をよく目にした。しいちゃんはいささか迷惑そうにするが、かといって離れるでもなくただじっとしていた。先生と僕の間で、らんちゃんにとって、しいちゃんの甲羅の高さは身体を休めるのにちょうどいいのだろうという結論に落ち着いた。

 ある日、先生の小学校からの同級生である高橋さんが日本酒とのどぐろの一夜干しを引っ提げて家にやって来た。夜は、高橋さんと三人でのどぐろの一夜干しをつついた。高橋さんいわく、金沢あたりでは、よく似た魚をのどぐろと偽って出されることがあるそうだ。

「たしかにありゃあよう似とる」先生もうなずいた。
「どうやってたしかめたらいいがかわかるけえ」高橋さんから聞かれて首を横に振った。

 先生がここじゃといって箸でのどぐろを突っついた。
「へえ、のどぐろって名前だけあってほんまに喉んところが黒いんですね」
「ただ、偽物を出してくるところは切り身で出してくるさかなあ」高橋さんがいったことに先生もそうそうと笑顔でうなずいた。

「さすがにおれはわかるさかなあ」と先生がいった。
 偽物ののどぐろは本物に比べるとほんのわずかに脂が少なくさっぱりしているのだそうだ。しかも、のどぐろ独特の風味もない。

「福田さんも絵を描きなさる」つと先生がいった。

「こいつも建築やっとるさるけえ建物の絵は上手やわあ」先生が高橋さんを指さしながらいったところへ、
「いや、建物以外も描いとるさけねえ」高橋さんがにっかり笑った。
 僕の描いた絵を高橋さんに見てもらうことになった。

「ほう、どれけえ」
「こりゃ輪島海岸やわいねえ」
「そうやわいねえ、あんた他にどこがあるいうがいねえ」と二人でいい合いながら、僕の絵を並んで眺めた。

「うん、色使いがなかなかいいがでねえけえ」と髙橋さんがいってくれたのにほっとしていると、
「なあん、そんなんならおれでもいうわいね。おれは絵のことはなあんわからんさけ、あんたの方がよう知っとる思うて見せとるがに何かもっとええこといわれんがか」と先生が噛みついた。

 さすがにむっとした様子の高橋さんの隣で先生はおちょこをぐいと飲み干してガハハと上を向いて笑った。

 高橋さんいわく、被写体の中から何に焦点を絞るのかを決めて、それを引き立たせるにはどういう描き方があるのかを考えてみるとよいとのこと。

「要するに、本当に自分の愛する対象物を描くということです」

 夜が深まっていく食卓で高橋さんの話に聞き入った。先生も黙ってうなずいていた。
 その夜、二人は深夜を過ぎまで飲んだ。僕は酔いが回って最後まで付き合いきれず二階に上がった。それでも朝になって下に降りてみると宴会の跡形もなく綺麗に片づけられてあってびっくりした。

 輪島では、毎年お盆からちょうど一週間後に四日間かけて輪島大祭が行われる。輪島崎町や海士町といった地区ごとのお祭りが連日開催される。神輿の担ぎ方やキリコという山車の見栄えも町ごとに異なって、何度来ても見飽きない。僕は中でも神輿が海へ入っていく様を眺めるのが好きだった。海の上で担がれる神輿と水平線の向こうに沈みゆく夕日が重なるのを見ていると何とも言えず荘厳な気持ちになった。大学生になっても毎年のように夏は輪島で過ごすようになったのも、ひとつはこの祭りを見たかったからだ。

 祭りが終わると海はいつもの閑散とした姿に戻った。お盆も過ぎた日本海に海水浴客はもういない。夏の終わった輪島の海には、肌寒さすら感じられた。誰も寄り付かなくなった灰色の砂浜が、過ぎ去った季節の侘しさを引き立てた。

 お盆を過ぎて誰もいなくなった海岸で久々に絵を描いていた。突風対策のため、イーゼルを岩でしっかりと固定させた。ユキちゃんとマユちゃんも最初のうちは一緒に絵を描いていたのだが、いつの間にか砂浜で貝殻を拾い始めた。彼女たちは、きれいな巻貝を探していた。集めた貝殻をひとつひとつ取り上げて僕に見せてくれた。

「これ、しいちゃんとらんちゃんのおうちに入れよう」マユちゃんがいった。
「しいちゃんとらんちゃんケガしたりしない?」ユキちゃんが心配していった。

「大丈夫やと思うけど、いちおうお父さんに聞いてから入れようね」などと話していると、ユキちゃんが海の方を指さしていった。

「あ、泳いでるよ」

 お盆を過ぎて海水浴をするひとはまずいない。まれに海に潜ってサザエを取っているひとがいる。もちろん無許可の漁は禁止されているのだが。

 最初は、海で何かを捕まえようとしているのだろうと思った。ユキちゃんが指さした彼方に目を凝らした。見ているうち異変に気づいた。髪の長い女性が服を着たまま海の中を歩いていた。僕はポケットの中身を出して靴を脱いだ。海に向かって走り出して、はっとなって、ユキちゃんとマユちゃんに二人ともそこでじっとしてだといるようにいった。二人は黙ってうなずいた。

 本当は声を上げて何か叫びながら近づいた方がよかったのかもしれなかった。だが、相手を驚かせてしまうとかえって逆効果になったのかもしれない。ただ、そのときの僕は何か考えているような余裕は微塵もなかった。

 海水を含んでジーパンがぴったりと足に張り付いて重たくなった。砂地の中に突然岩があったりして靴を脱いできたことを後悔もしたが、みぞおちくらいの水位まできたときに、泳がなければ間に合わないと思った。最初はクロールで近づこうとしたがすぐに疲れてしまったので、平泳ぎに切り替えた。女性の背中が見えるくらいまできたときに波をまともに顔にくらった。鼻から海水を飲み込んだ。思わず足をついてむせ返った。

 年のたいして変わらぬ女性がこちらを振り返っていた。青白い顔をしてうつろな目で僕を見つめていた。黒く長い髪が波の中で揺れていた。

「大丈夫ですか?」

 僕の問いかけに女性はじっと僕を見つめたまま身じろぎひとつしなかった。水に濡れた青いワンピースのスカートが波でわかめのように揺らいだ。

「もう帰りましょう」

 僕と一緒に、と言いかけて、堪えがたくこみ上げてくる感情があった。それは僕が彼女に発した言葉であると同時に、自分に向けられた内なる言葉だったからだ。

 僕は彼女の腕をつかんだ。彼女は振りほどいた。僕はもう一度つかんだ。また振りほどいた。無言のやり取りが続いた。

「負けるもんか」僕は叫んだ。彼女も何か言葉を発した。

「負けてたまるか」僕は何度も繰り返し叫んだ。口の中にしょっぱさがよみがえった。海水と思ったそれは僕の涙だった。

 彼女が腕をふりほどかなくなった。しくしくと泣き始めた。僕は彼女を抱き寄せた。海の中で冷えた身体に温もりが伝わってきた。心の中でゆっくりと何かが溶け始めた。

 彼女の名は岡裕実といった。先生の教え子だった。家に連れ帰った彼女と僕がびしょびしょに濡れている姿を見て、先生は「なあんじゃあ、二人して」といって、はよ入れとぼそっといい残すと立ち去った。

 彼女が風呂に入っている間に僕は先生に一部始終を話した。先生は黙って僕の話を聞いた。話を聞き終えると何もいわず奥へ行った。

 僕が風呂から上がると、彼女の母親が来ていた。
「ケンジにはあんたから話してやれ」頭を下げる母親に先生が小さな声で話していた。

 ケンジとは彼女のお父さんのことで、先生は小さな頃から彼のよく知っていたのだった。

 彼女は先生の奥さんの服を着て座っていた。髪は濡れたままだったが、頬に赤みを取り戻していた。

 その夏の終わりにらんちゃんが突然亡くなった。ある夜、先生が岩の上でぐったりしているのに気づいてひっくり返して見ると喉からお腹にかけて黒ずんでいた。原因は分からなかったが、何かの菌にやられたのかもしれんと先生はいった。

 次の朝、らんちゃんがしいちゃんの甲羅の上に寄りかかっていた。
「しいちゃんにバイバイしてるの?」マユちゃんがいうと、先生はああそうやとうなずいた。

 その日の昼過ぎにらんちゃんは息を引き取った。先生とユキちゃんとマユちゃんと僕に見守られながら。

 次の日、先生がらんちゃんの亡き骸にみんなから集めた爪を足して、プルシアンブルーを抽出した。卵の腐った臭いが家の中に漂った。青い結晶は小さかった。鮮やかに色濃く輝いていた。

 その夜、高橋さんが訪ねてきた。らんちゃんが亡くなったことを知ると、ほうけとつぶやいて、中庭の前で腰を下ろして手を合わせた。それからしばらくの間、しいちゃんひとりになったゲージの中を眺めていた。

 食卓は静かだった。気を利かせて高橋さんが仕事の話や絵について語ってくれたが、話題も尽きるとまた沈黙が訪れた。

「なあんもったいねえわい」先生がぼそっとつぶやいた。

 高橋さんがはあ?と聞き返した。僕には先生が何を言わんとしているか分かっていた。

「おれは、小学校三年の一学期は二日しか学校いっとらんげえ」

 先生は幼いときに心臓の病気を患っていたため、小学生低学年のときは入退院を繰り返していたという。

「夏休みが終わってえ算数の授業を受けたら、数字の間に棒線が入っとって、なんじゃありゃあってなったさけえ、ほいでこいつに教えてもろうたげ」と高橋さんを指さした。

 先生の心臓病は、成長するにつれ、普通の生活を送るには問題ないほどまでに回復したが、薬はいまでも毎日飲んでいた。

「生きとうても、元気でおろう思うてもおれんやつもる。みんないつかは死ぬんやさけえ。それをなんちゃ静かに待たれんがか」

 僕は海の中で彼女を抱きしめたときの温もりを思い出していた。

「福田くんよ、愛するもの、大切なものを描いてくだし」

 はいと答えたきり、先生の声に包まれて僕は顔を上げられなかった。

 その日は、二階に上がってからもなかなか眠れなかった。空が白み始めたときにようやく眠気がやってきた。うっすらと眠りに落ちていくとき、僕は神戸に帰ることを決めた。

 目が覚めて時計に目をやると、まだ七時前だった。三時間ほど眠っただろうか。気持ちが固まったことで頭の中はすっきりしていた。

 先生は、食卓のテーブルいっぱいに論文を広げていた。ノートに書きこんでいる背中が見えた。話があると僕がいうと、ちょっと振り返ってから、なあんじゃあ、といった。

 僕は、輪島に来るにいたった経緯を話した。神戸にいる家族のこと。父が医師で医学部への進学しか認めておらず、兄は現在医学生であること。当然、画家になることなんて認めてもらえない。どうしても親の意に背くなら一流の美大しか認めないといわれ、だったら東京の美大専門の夏期講習に行かせろといってそのお金で一人旅に出た。小さな頃から勉強が苦手で兄と比べられるのが嫌だった。小学校で書いた絵が初めて表彰されたが、父はその絵を鼻で笑った。小学校の卒業文集の表紙に選ばれても、高校の美術コンクールで金賞をもらっても家では誰も褒めてくれなかった。有名な画家になって家族を見返してやりたい。ずっとそう思って生きてきた。すべてを先生に話した。

 先生は僕の話を聞きながら、ときおり「なあんじゃあ」と小さく相槌を打ったりした。話を終えたとき、「たいしたことねえよ」とつぶやいて黙り込んだ。腕を組んだまま、じっと目を閉じていた。ややあって、小さくうなずくと先生は自分の生い立ちを話し始めた。

「父親が四歳のときに家を出て行って、母親は小学校一年のときに死んでしもうたさけ。おれは、そのときからひとりなげ」先生は人差し指を立てた。

 ひとりになった先生を育ててくれたのは母方の祖母だった。大学でいまの奥さんと出会って結婚して五人家族になった。
「いまも逆単身赴任やさかあ、またひとりやわいね」笑いながら立てた人差し指を振ってみせた。

「そやさか子どもはぎょうさんほしい思うとった」

 先生の話を聞いているうちに神戸が恋しくなってきた。一か月前に逃れるようにして離れた町がまるで初恋のように懐かしかった。

「おれが変えなあ、おれも変わらなあ、それしかないさか」

 岡裕実のことを思い返していた。彼女はいまどうしているのだろう。僕は彼女の抱えている問題は何も知らなかった。大きくてひとりで抱えきれない問題を彼女も持っていたのだ。あのとき、叫んだ僕の気持ちは彼女に伝わっただろうか。いや、負けたっていい。でも、逃げてばかりいてはだめだ。

「明日、神戸に帰ります」

 先生はほんの少し驚いたが、それがええとうなずいた。

「またいつでも来るまし」

 先生はそういうと、立ち上がって行ってしまった。クーラーの風がノートのページを小さく揺らした。

 二階の荷物を整理していると先生が入ってきた。

「これを持っていくまし」ガラスのシャーレだった。

 中には小さなプルシアンブルーの結晶があった。え、でもこれ、らんちゃんのと僕がいうと、ぐいとシャーレを突き出した。

「これでまた絵を描いたらいいさけ」

 僕はシャーレを受け取った。何を描くかはもう決まっていた。

 次の朝、先生とユキちゃん、マユちゃんに見送られながら、高橋さんの車に乗り込んだ。荷物がたくさんあったので、先生が高橋さんに車をお願いしてくれたのだ。

 助手席の窓から手を振った。振り向いてリアウィンドウから先生たちの姿を見た。後ろには輪島の空が広がっていた。前を向いてルームミラー越しに先生たちを見た。先生は両手を腰にあてて立っていた。ミラーに映る先生たちがどんどん遠ざかっていった。

 僕はその翌年の春に地元の大学の文学部に入った。絵の道をあきらめた代わりに漠然と思い浮かべたのは、文章に関わる仕事がしたいということだった。先生がテーブルに論文を広げていた光景が頭の中にあった。

 大学の学費は親から借りた。輪島で過ごしながら貯めたアルバイト代と社会人になってからの給料が大学の学費として親からの返済へと消えた。二〇〇〇年の就職氷河期の中、何とか東京にある小さな出版社に就職した。いまは科学専門の編集者としてフリーランスで働いている。

 大学の夏は毎年のように輪島へ行った。大学四年のときに単位が足らず、また卒業が一年延びてしまっても、輪島で過ごす時間ができてよかったとさえ思った。就職する前の春も先生に会った。ちょうど先生の転勤が決まり、春から家族と一緒に金沢で暮らすことになっていた。

「金沢の家はちょっと狭いし、どうかもらってくれんけえ」

 先生からそういわれて手渡されたのがしいちゃんだった。東京の家は小さいワンルームだったけど、僕はしいちゃんを譲り受けることにした。先生が輪島を離れて以来、僕は先生に会っていない。

 先生から受け取ったプルシアンブルーで絵を描くことはなかった。シャーレに入った結晶を抽斗から取り出して眺めているうちにもったいないと思って、ついに使えなかった。

 シャーレの中にあるブルーを眺めているとあの夏のことをつぶさに思い出すことができた。灰色がかった青い海の中にいた僕たちは、あそこからどれほど変われたのだろうか。

 あれから二十数年もの間に目の前の景色は目まぐるしく変わっていった。どんどん変えてやろう、自分も変わらなければとやっきになっていた。

 だから、ひとから変わったと言われると成長したと褒められたかのようにうれしかった。

 でも、それは錯覚なのではないか、最近そう思うようになった。変わらなくたっていいものだってあるのだ。いまもシャーレの中に小さく眠るプルシアンブルーのように。

読んでいただき、ありがとうございます!