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明日へ向かって 96(残りあと4話)

 希美は二人の会話を聞きながら、ただ黙っていた。ひとつは自分の役割を終えたということ、もうひとつは、これからのことを語る資格は自分にはない、そう思っていたからだ。
 ふぐ刺や車エビ、鯵の刺身といった、大阪では中々口にできない新鮮な海の幸がテーブルに並んでいた。
 こんなテーブルを囲む夜もこれで最後になると希美は思った。悲しくはなかった。それよりも達成感の方が優しく希美を包み込んでいた。大袈裟な話かもしれないが、一生分の仕事をやり終えたくらいの達成感があった。
「わたし、きっとうまくいくと思います」
 唐突に発した希美の言葉に、二人は驚いたが、同時にゆっくりと頷いた。
「どこかで高津三河製薬の風土改革の成果が見れたら嬉しい」
 思わず希美の目に涙が浮かんできて、言葉はそこで止まった。
 城戸がやさしく頷くと、きっとそうなると思います、と言葉を添えた。
 榎本は何も言わず、ただ静かに冷酒を口に運んでいた。
 外には深くて静かな夜の闇が訪れていた。そうして、希美は風土改革活動最後の夜を榎本と城戸の三人で過ごした。

 希美の勤務日数も残すところ一週間に迫ったある日、希美の手元に社内報のゲラ刷りが届けられた。
 本来、社内報のゲラ刷りがわざわざ執筆者本人の目に触れることはなかったが、事業企画室に異動した榎本が気を利かせて希美に寄越したのだった。
 そこには希美のモノクロ写真とともに、昨年末に家で書いた言葉が、そのまま活字になっていた。
 気恥ずかしい思いと、誇らしげな思いを交差させながら、自分の書いた文章を黙読した。
 読み返してみると、所々不器用な言葉が目に付いた。それでいて勢いに任せて書いたような一文もあった。だが、これでいいのだと希美は思った。読み返しても、そのときの自分の感情が鮮明に甦ってきた。これは間違いなくわたしの書いた文章だと思えた。
 希美はその文中で、自身の風土改革の活動について振り返った。最初に受けたオープンディスカッションの衝撃。だが、自分にも語るべき言葉はあったということにさらに驚きもした。
 それから活動とともに育まれてきた自分の成長について思いを綴った。幾度となく悩んできた中にも、常に新たな発見があったこと。その発見に導かれるようにして自らの成長が促されてきたことを書いた。
 彼女のコラムは、最後を次のような言葉で締め括っていた。
『この活動がなければ、いまの私はないといって過言ではありません。私の中の気付きや発見、そして成長はすべて風土改革によるものだと断言できます。
 私は、このような成長の機会は誰にでもある、それこそが風土改革だと思います。ひとりでも多くの方にこのことを知ってほしい。そして、ひとりひとりの成長が、社の大きな発展に繋がることを心より願っております。』

 三月も終わりになると、急に思い出したように春の暖かさは訪れた。寒暖の差が繰り返された間に膨らんだ桜の蕾は、春の風に吹かれると一気に開花した。
 桜の花を見て、人々が連想するのは、入学、新しい門出、それと、卒業、別れのいずれかである。
 希美は無論、後者を思い描いていた。ここを旅立っていく者として。
 三月に榎本が異動した後、新しい部長には、静岡研究所の緒方が就任した。あの合併前に行われた三河製薬との合同ミーティングのときに高津製薬の大阪ラボ訪れた三人のうちのひとりである。
 長原も榎本もいなくなった研究所に、希美が特別に別れを告げるべき相手がいるとすれば、残るは啓大ひとりだった。
 啓大が静岡へ行くのは本当に最後のようである。すべての後片付けを担うメンバーのひとりとして最後まで大阪に残ることになった。
 もちろん、風土改革活動以外にも、一緒に実験をやってきた研究員は他にも大勢いる。ただ、彼らとの別れは、静岡へ何人かが移動していく度に、少しずつ訪れたことで悲しみもまた分断されてしまった。

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