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明日へ向かって 95(残りあと5話)

「榎本さんはどうされるんですか?」
 榎本が静岡に異動しないということは、希美も知っていた。
「それがまだ分からんのだよ。この年になるとそれなりに受け入れてくれる先が少ないようだな。こんなに優秀な人材なのになあ」
 そう言って、榎本は照れ隠しに笑みを浮かべた。
「森下さんはどうするの?」
「まだ何も」
「そうか、少しゆっくりするといいよ。最後にいろいろ無理をさせちゃったし」
「まだ終わったわけじゃありませんよ」
 希美がそう言うと、そりゃそうだ、と榎本が頭を掻いて歯を見せて笑った。
「ラストスパートだな。最後までよろしく頼むよ」
 もちろんです、と希美が力強く頷いた。
 そこには逞しくさえ思える輝く笑顔があった。
 一月も終わりに近づいた頃、合併後に名前を一新した社内報ライフが配られた。
 巻頭には新社長の挨拶とインタビュー記事、それに新たな組織の紹介が続いた。
 ウェルネスプランの野村の寄稿はちょうど真ん中辺りに掲載されてあった。野村のモノクロ写真とともに、記事は見開き一ページに渡っていた。昨年の講演内容を中心に、次いで合併の難しさや異文化の交流は組織が大きく飛躍するチャンスなど、まさに新たなスタートを切った組織へのエールにふさわしい内容だった。
 野村の記事に目を通していた希美は、終わりに差しかかったところで思わずハッと息を呑んだ。自分の名前を見つけたからである。そこには、風土改革活動の連載が始まること、次号で薬物動態研究所の取り組みについて希美から紹介されると書かれてあった。いずれにせよ、直前で別の名前で掲載してもらうという腹案は、通るものでもなかったのだ。
 すでに先手が打たれてあったことを知って、希美は小さな笑みを浮かべた。
 あれから希美の書いた記事は、多喜田が一度目を通し、つい最近ようやくその修正をやり終えたところだった。てをには以外にも、多喜田からいくつかリクエストがあり、それに応えるためにもう一度希美は腐心しなければならなかった。
 風土改革説明会も残すところ僅かとなった。このタイミングで野村の記事が社内報に掲載されたことは、非常に効果的であった。社内報の記事を読み、さらに野村の著書を読んできたという熱心な参加者が少なからずいて、彼らの説明を興味津々で聴いてくれた。
 目に見えてよい反応が増えていた。それは魔法のように三人の疲れを吹き飛ばしてくれた。
 この頃になると年末に城戸が言っていた、思っていたよりも早く活動が進むかもしれないというあの言葉が希美にも実感として湧いてきた。
 もちろん、一部で好感触が得られたからといって先々の活動を保証するものではないということは分かっていた。だが、この活動を待ち望んでいるひとが間違いなくいる、ということがずいぶんと心強かった。

 ようやく、榎本の異動先が決まった。内心では密かに、長原と同じ研究所勤務となることを願っていた榎本であったが、決まった異動先は本社だった。部署名は、事業企画室。合併後、新たにできた部署であり、まだ何をするところなのかもピンとこなかった。それでも榎本にそれを断る選択肢はなかった。
 少し早いけど、と言って希美と城戸に異動先のことを打ち明けたのは、説明会最後の夜だった。その夜、三人は大分にいた。
 大分工場での説明会で、彼らの全事業所巡業は終止符を打った。
 大分市内に宿を取った彼らは、説明会を終えてホテルのチェックインを済ませると、市街地の居酒屋に繰り出した。
「いつからですか?」城戸が訊ねると、三月一日からだと榎本が答えた。
「ずいぶん急な話ですね」
 そう言う城戸に対し、榎本は、いえ、ようやく決まったという感じです、と静かに答えた、それから少し間を置いて、
「きっと風土改革を続けなさいってことなんでしょう」そう言うと、榎本は冷酒を口に運んだ。
「もしそうだとしたら、いまよりも進めやすくなると思いますよ」
 城戸が加勢するように言った。

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