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明日へ向かって 46

 啓大と長原がミネラルウォーターを持って会議室に入ってくると、にわかに騒がしくなった。方々で名刺交換が交わされる様子を希美は黙って眺めていた。
 最初の榎本の説明こそ堅苦しさがあったものの、いざ合同ミーティングが始まると活発な議論が交わされた。高津製薬は長原が中心に話し、啓大がそれに合わせて自分の考えを述べ、ときおり榎本が短くコメントした。
 三河製薬は三人ともほぼ均等に話したが、対話のイニシアチブを取っていたのは以外にも一番若手の大友だった。緒方は場を和ませるような柔らかいコメントが多かったのに対し、片山のコメントはややシニカルなところが目立った。
 ミーティングも終わりが見えてきたところで緒方が発した何気ない一言をきっかけに対話はがらりと様相を変えた。
「今回のミーティングは、高津製薬さんからの提案だと聞いてますが、どこからこのような話になったんですか」
 緒方の一言に、思わず四人が顔を見つめ合った。提案のきっかけになったのは、三河製薬の薬害問題が話題に上ったからである。果たしてそれを正直に言うべきか皆が迷っているところへ長原が口を開いた。
「私たちのオープンディスカッションで、メイセンの副作用について話し合ったんです」
 三河製薬の三人の表情からさっと笑顔が消えると、部屋は一気に張り詰めた空気に覆われた。そんな空気を物ともせず、長原が言葉を続けた。
「あれほど画期的な新薬を生んだにも関わらず、副作用被害も同時に起きてしまった。御社の研究所の皆さんとお話がしたいと思いました」
 三河製薬の三人は誰も口を開かなかった。
「いまたいへんなときかと思いますが、合併も控えてますので、一度こうした場で研究者としてお話できたらと思いまして」榎本がフォローしようと口を開いた。
「すみません、そのお話は一切できないことになっているんです」
 それまで場を和ませていた緒方が堅い表情を崩さず、一切という言葉を強調気味に言い放った。そうですか、それは失礼いたしました、と榎本が詫びると、緒方もさすがに、いえ、こちらこそ申し訳ありません、と軽く頭を垂れた。
「つい先日、うちの息子が小学校で石を投げられて頭を三針縫う怪我をしました」
 皆が長原の方へ向き直った。
「ヤクガイといってからかわれてけんかになったんだそうです」
 淡々と語る長原の言葉は、希美の心を急激に締め付けた。それから、ここ最近になって長原が早く帰宅するようになっていたことに思い当たった。
「ちょっと待ってください。息子さんがお怪我をなさったのは弊社の副作用被害に関係しているとおっしゃりたいんですか」
 大友が口を開いた。長原は口を真一文字に結んで小さく頷いた。
 そんな、と絶句する大友の横で片山は首を小さく横に振っていた。長原の息子の怪我に心を痛めているというよりも、やれやれといっているように希美には見えた。
 長原さんはいったい何が言いたいのだろう、と啓大は訝った。たしかに怪我をしたことは気の毒に思うが、これではまるで三河製薬の副作用被害のせいでうちの息子が怪我をしたと苦情を言っているようなものではないか。
「もちろん、うちの息子の怪我を御社のせいだと言いたいのではありません。息子の怪我を知って真っ先に思ったことは、私の仕事が息子に災難をもたらしたのだ、ということでした。そんなことが起こり得るなんて、それまで一度たりとも考えたことなどありませんでしたが、実際に起きてしまったんです」
 皆黙って長原の話に聞き入った。
「ひとの命を救うために作った薬でもひとの命を奪うことがあります。私が製薬会社の研究員をしていたがために息子が傷つけられたこととも何か少し似ていると思ったんです。何かをしようとすれば必ず何か別の思わぬ事態を招いてしまう。我々が作ろうとしている薬は本当に病気を治しているのか。本当にひとの命に役立っているのか。私のしている仕事は正しいことなのか。そんなことを考えるようになりました」

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