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明日へ向かって 91(残りあと9話)

 啓大は久しぶりのステージに興奮した。
 もうモスキートーンのことは忘れるしかないと諦めていた。ギターを押入に仕舞い込み、通勤時間に音楽を聴くことも止めて、すべての決別を心に決めた。だが、そんなものは、数日も持たなかった。
 頭からメロディーが離れないのだ。電車の中で本を読んでいても、気がつくと頭の中でふつふつと旋律が湧いてきた。
 生まれた旋律の後を思考が追いかけ始めると、活字も何も目に入らなくなった。それは実験をしていても、テレビを眺めていてもお構いなしだった。溢れ出す旋律は時と場所を選らばなかった。
 浮かんだ旋律をフレッドに乗せたいという衝動は、どうしても堪えることができなかった。
 煙草を切らしているように手先がウズウズした。ギターケースを押入から引きずり出し、ネックを握りしめるだけで不思議に気分が落ち着いた。
 これは俺の望んでいる人生なのか。ふとそんな思いが脳裏を掠めた。バンドはこれまでにないほどの成功を収めている。
 俺はこのままじっとそれを見送り、製薬会社の一研究員としての人生をまっとうするだけ。本当にそれが正しいのだろうか。
 音楽業界のように不確かな世界に比べれば、それとは対称的に製薬業界は質実剛健な世界だった。どちらに本当の自分の居場所があるのかは分からなかった。
 俺はこのままモヤモヤを抱えながら人生を歩んでいくのだろうか。もしモスキートーンが押しも押されもせぬスターダムにのし上がったとき、そこに自分がいないことを俺は許容できるだろうか。
 モスキートーンの東京進出が水泡に帰したとき、そこに自分が一緒にいられなかったことを俺はどう思うだろうか。
 啓大のモヤモヤは日に日に増して大きくなっていった。それとは逆に、目の前の日常はどんどん色褪せていった。自分が失われていくような気さえした。そんなとき、久々にテツオから連絡があった。
「たまには休みとって東京に出てこいよ」
 啓大はふたつ返事でテツオの申し出を受けた。久々に会うメンバーは、どことなく逞しく見えた。ジェイが少しスリムになっていた。
「ダイエットでも始めたんか?」
「ただまともに飯食ってねえだけ」
 ジェイの雑な返事に思わず目じりが垂れた。
 啓大がアキラの腹を叩いた。アキラがシャツを捲って自慢の腹筋を見せて笑った。
 東京のステージは二日間だった。他のブッキングアーティストも、大阪にいたときとは比べ物にならないほどのツワモノばかりだった。
 久々のステージと熱い歓声に、一曲目では足が震えた。外は冷たい風と雨が吹き荒れていたが、ライトに照らされ、歓声に包まれたステージは熱かった。
 俺にはやっぱりこれしかない。啓大はギターをかき鳴らしながら、そう強く確信していた。いつかきっと何としてでもまたここに戻ってみせる。そう強く心に決めた。

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