明日へ向かって 47
啓大もここにきてようやく長原の言わんとすることが分かりかけてきた。それは啓大も常日頃から考えていたことと同じだったからである。
「おっしゃりたいこと、よく分かります。だからこそ、私たちのやっている研究を信じることが大事なのではないでしょうか」
緒方が言ったことに、榎本は黙ったまま大きく頷いた。
「私も今までそう思ってきました。けど、例えば世の中にある薬で本当に必要な薬がどれくらいあるかご存じですか?」長原が訊ねた。
「八十年頃にWHOが作ったリストのお話をされているのですか」
大友の発言に長原は頷いた。
「二百四十種類だそうです。でも、いま世の中には何十万種といった薬が存在している。これは何を意味しているのでしょうか」
それから長原は次のような例を挙げた。
一九八〇年、スイスのジュネーブに本部を置く世界保健機構(WHO)は、第三世界にとって必要不可欠、すなわち十分な薬として二百四十種をリストアップした。
かつて薬を減らそうとまじめに取り組んだ政治家がチリにいた。一九七〇年からクーデターに倒れる七三年までチリで大統領を務めたサルバドール・アジェンデは、自身が医学部出身だったこともあり、医療に高い関心を示し、必要な薬の数として、治療効果の確認できるとした二六の薬に限定した上で、一国の大統領として、十数名の医師たちとともに薬を減らすことに取り組もうとした。だが、不運にもクーデターによってアジェンデは失脚した。彼の失脚と同時に薬を減らすことに取り組んでいた十数名の医師たちも殺された。
その後、CIAがこのクーデターに関与したことをワシントンが認めた事実が明らかになった。CIAには医薬産業との太いパイプがあり、無意味な薬を意図的に減らさぬようにクーデターが仕組まれたのではないかとする説さえ囁かれた。
八一年、国連工業開発機構(UNIDO)とWHOが協力して、第三世界にどうしても必要だと思われる薬を二六種に絞ったリストを作った。この数はアジェンデ大統領の限定した数と奇しくも一致していた。
「そんなこと言っても始まらないでしょう」
皆が一斉に振り返った。これまでほとんど無口だった片山が重い口を開いた。
「それとも、不必要な薬を我々は作っている。その論証として挙げられているのですか?」
相手の言葉を待っているのか、言うべきことが見あたらないのか、長原は黙っていた。
「動物愛護団体も同じような切り口で論旨を展開することが多いですよね。必要のない動物実験を繰り返しているって」大友が片山に同調するように言った。
「そうなんだ。でも、少しずつでも世の中が進化を遂げるためには、一見無駄だと思えるものでも必要なんだよな。それで資本主義経済が回っているわけだし」
片山が大友の同意を得るかのように笑顔で続けた。大友もそれに答えるように頷いた。
「たしかにそれはおっしゃられる通りだと思います」長原が口を挟んだ。
「資本主義経済発展には成長し続けるということがベースなってます。私もそれを否定したいわけではないんです」
片山が静かに長原の言葉を待っている。だが、その顔には自信の現れか、うっすらと笑みが浮かんでいるのを希美は見逃さなかった。
「この国では、病院に行けば、本当にこれほど必要かと言われるほど薬が処方され、実際にも飲まれないで捨てられているとさえ言われている一方で、国民医療費の高騰は社会問題にもなっています。製薬会社のモットーとして、患者によりよい薬をより早く、とよく言われますが、いまの日本の医薬品開発の現状が果たしてそれに合っているのか。一企業の発展としての医薬品開発と社会発展としての医薬品開発に大きなズレが出てきているんじゃないかと思うんです」
そこまで言って、一度長原は少し照れ隠しのような笑みを浮かべながら続けた。
「偉そうなこといって、だからこうしたらいい、というような明確な意見があるわけではないんですが」
そこで長原の話は止まった。
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