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明日へ向かって 44

 合同ミーティングの開催許可は降りないだろうと踏んでいた榎本だけに、上からの了解が得られただけでも十分に嬉しかった。すぐに希美の机に駆け込んでそのことを伝えた。
「ええー、嬉しいです」
「早速さ、城戸さんにも連絡して、日程だけでも押さえちゃおうよ」
 よほど嬉しかったのだろう。希美よりもむしろ榎本の方が乗り気な様子だった。
「いろいろ制約つけられちゃった感じありますね」
「いや、先方もただでは許さないよというところだろ。別にそんなに重たいものではないし。ぼくも一応出席するし、あっ、もちろん森下さんもね」
「でも、いや、わたしはちょっと」と口ごもる希美を榎本は遮った。
「いや、森下さんには絶対に出てもらわないと」それから一拍おいて榎本は言葉を続けた。
「議事録の書記担当ということでね」
 ほっとした希美の表情を見て、榎本が声を上げて高らかに笑った。
 相手が主任研究員を出席を予定しているということもあり、高津製薬側でも同じく主任研究員クラスを検討したが、薬物動態研究室には、長原を入れて該当者は五人しかいない。そのうちこれまで四回のオープンディスカッションに参加したことがあるのは二人だけだった。その二名に参加を打診したが、いずれも答えはノーだった。そこで、高津製薬からの参加者は、主任研究員に拘らず、長原と榎本、それと啓大の三名に書記およびオブザーバーとして希美の計四名に決まった。

 モスキートーンの新曲初披露の日がやって来た。新曲はあのバラードである。テツオの歌詞には、自分たち自身の体験が織り込まれていた。
 若かった頃の夢。それにただがむしゃらに突っ走っていた。誰からも汚されたくなかった。ただただ自分の夢にこだわって。やがて月日は流れ、夢もしだいに輝きを失って徐々に変わり行く。いま目の前にある現実と、自分と向き合い、考える。俺は夢を忘れたわけではない。色褪せて縮んじまった夢こそいま大切にしたい。明日へ向かうために。そんな歌だった。
 新曲のタイトルは、明日へ向かって。
「これまでになくシリアスな曲になったな」
「ま、こっぱずかしいけどさ。やっぱ本当のことを歌にしたいと思うとこうなってんよな」
 しかも全編日本語の歌詞というのもバンド結成以来初めてのことだった。
「頼むからさ、曲紹介、啓大からしてくれよ」
 いつもならテツオが曲紹介をしたものだったが、今回はやけに照れくさいらしい。
「いいよ。たしかにバラードだし、ちょっと照れくさいよな」
「そう、今更って感じじゃん」
 四人の表情は晴れやかで明るかった。新曲への自信の高さがそこに表れていた。

 メイセンの薬害問題は、その後各地に被害者団体が結成され、集団訴訟の準備が進められていた。東京地検と大阪地検への同時提訴が検討されていた。一時ほどの頻度ではなかったが、薬害問題はときおり紙面を賑わしては忘れかけていた人々の記憶を呼び覚ました。
 抗がん剤であることを考慮してか一部の専門家からは製薬会社を擁護する発言も聞かれたが、開発中の臨床試験で副作用報告を過小評価したところにもっぱら非難は集中した。専門的な議論を他所に、あらゆるマスメディアが三河製薬の傲慢さを断罪した。
 抗がん剤が何たるかが語られることより、製薬会社のあり方といった議論が横行する中、三河製薬はマスメディアからすべての広告を撤廃する代わりに新聞紙面にお詫びを入れるなどして世間の非難に少しでも真摯に応えようと努力した。
 そんな中、三河製薬と高津製薬のオープンディスカッションは開催された。互いの希望で、金曜の夕方に会はセッティングされた。

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