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明日へ向かって 92(残りあと8話)

 社内報に希美が風土改革活動のコラムを執筆するという話は、榎本から正式に聞いてもなお、信じられない心境だった。
 いつもなら長原に真っ先に相談するところだが、誰にも相談できぬまま、断ることもまたできなかった。
 唯一の相談相手は、世話人会で顔を合わせる美容師の山本だった。
「すごいね、それは。もう張り切って書いちゃってよ」ごく当たり前のように、山本の口からはポジティブな言葉しか聞こえてこない。
 希美には返す言葉もなかった。たしかに、結構な話ではある。チャンスといっても差し支えない。少なくとも私が社員であれば、いや、契約社員であっても、あと半年先までいられる身であれば、もう少しは前向きに考えられたかもしれない。
「森下さんの会社って、大きいんでしょ。従業員って何人いるの?」
 山本に聞かれ、さあ、と希美は小首を傾げた。
「たぶん、一万人とかだったですけど、合併したら三万人くらいはいくんじゃないですかねえ」
「そりゃすごい。それだけの人目に触れるだけでもたいへんなことだよ。出版物ならベストセラー並みだね」
 感嘆を繰り返す山本の声を聞き、希美はさらに身を硬くした。やはり何とかして断るべきではないのか。
 それとも、原稿の下書きまでは書いておいて誰か他のひとに執筆者名を譲るというのはどうだろう。それであれば、何の問題もない。執筆者は、榎本か啓大にしてもらえばいいかもしれない。どうしてこんな簡単なことにもっと早く気付けなかったのだろう。
 たったひとつの思いつきであっけないほどに杞憂は過ぎ去っていった。
 早速明日にでも榎本に相談してみようか。いや待てよ、もっと直前まで引っ張った方がいいかもしれない。いまから提案してしまうと、どこかで覆される可能性がある。ある程度お膳立てが整ってから、せえの、でひっくり返した方がこの手の提案は通りやすいように思われた。そうだ、そうしよう。
 そんなことに思いを巡らせながら、我ながら器用に物事を考えられるようになったものだと感心した。だからといって、それが特別何かの役立つとも思えなかったが。

 以前に比べればかなり慣れたとはいえ、説明をし終えたときは背中に薄っすらと汗が滲んでいるのを希美は感じた。
 窓の外はすっかり冬模様であるにもかかわらず、身体を走る緊張に季節は関係ない。
 説明を終えてから質問が飛び交うようになるまでには少しの時間が必要だった。それはどこへ行っても変わらなかった。
 会場に集まっている従業員のほとんどが初めて聴く話をうまくキャッチできていない様子だった。どこも同じような反応と質問が上がってきた。
「これはトップダウンの活動ですか?」
「これは何故、薬動研から始められたのですか?」
 大抵はこうした活動の趣旨や背景を伺う問いかけである。
「きっかけトップダウンではありますが、現場主体での活動です」
「薬動研から始めると決まっていたわけではなく、ウェルネスプランさんのセミナーに当グループから参加したのがきっかけです」
 だが、こうした榎本の回答で質疑応答はさらに混迷していくことが多かった。
「そもそもどうしてこのような活動が必要なんでしょうか」
「薬動研で何か問題があったから、ということでしょうか」
 榎本が答えに窮すると、城戸が口を挟んだ。
「風土改革は、問題解決の方法ではなく、組織力を高める活動なんです」
 それを聞くと場は益々紛糾し始める。
「組織力って何ですか?」
「身体の免疫力を高めるのと同じようなものです」
 そこでやや納得する者、首を傾げ始める者と様々だった。
「組織力が高まるとどうなるんですか?」
「仕事がスムーズに進むようになります。それと、新しい発想も生まれやすくなります」
 あまりよいことばかりをツラツラ並べられると疑りたくなるのがひとというものである。
「オープンディスカッションをすれば、そのような職場になる、とおっしゃりたいんですか?」三人ともが頷くと、
「じゃあ、薬動研はそうなってるんですか?いま」
「たしかに以前よりもコミュニケーション力は上がっているかと思います」
「でも、二年も続けていてたったそれだけ何ですよね」
「他に何か成果はないのですか?」
 こうして最後の方には、堰を切ったように質問が次々と彼らにぶつけられるのだった。

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