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明日へ向かって 67

 柔らかい陽射しが地面に注がれる季節になった。よく見れば、木の枝端にはほんの小さな隆起がつき始めていた。
 ビルに立ち並ぶ都会の街角にも、行き交うひとの服装から春の訪れを感じることができた。芽吹きの季節は、もうすぐそこまで近づいていた。
 モスキートーンにも春が訪れた。彼らのバラード曲、「明日へ向かって」が関西ローカルFM局の月間ヘビーローテーション曲に選ばれたのである。
 ホーリーワークスのデイヴさんから届けられたその知らせは、モスキートーンのメンバー全員を有頂天にした。さらにデイヴさんは、「明日へ向かって」と他二曲を入れたマキシシングルを出すことを提案した。
 突如として吹き始めた風に、彼らは色めき立った。願ってもないチャンスの到来は、すでに眠りかけていた彼らの夢を呼び覚ませ、奮い立たせるに十分だった。
 啓大もまた興奮の渦中にいた。ただ、結成当時にも経験したほろ苦い経験と相まって戸惑いのようなものもあった。今度来た夢は、どこまで信用してよいのか。前と同じように、ちらりとだけ微笑んですぐに去っていくつもりではないのか。そんな思いが過った。
 だが、あの頃といまは違う。あの頃は、まだ学生で若かった。夢はその気にさえなればいくらでも貪ることのできるものだと思っていた。いまに見てろよ。いつもそうやって息巻いていた。
 ふと懐かしさに笑みがこぼれる。あれから現実の前に何回夢を置き去りにしただろう。気がつけば、もう闇雲に夢を追いかけるようなことはしなくなっていた。諦めではなかった。もうどこを向いて走ったらよいのかすら分からなくなっていたからだ。
 夢を追いかけるうち迷子になって、そして途方に暮れていたところに一筋の光りが差し込んできた。
 この光りは、今度こそ本当に俺たちを導いてくれるのだろうか?

「えっ?わたしが、ですか?」
 思わず希美の声が裏返った。
 無理もなかった。榎本から風土改革の活動報告を研究本部長にするよう命じられたのである。
「長原さんと相談して、やはり森下さんが適任だろうということになったよ」と榎本は屈託のない笑みを浮かべている。
 どうしてわたしなんですか、本当はそう言いたかったが、それすらも言えなかった。あっさりと断ってしまえるのなら、それほど楽なこともなかったが、希美はそうもできなかった。
 長原さんもわたしを選んでくれたのなら。断るのを一歩踏み止まらせたのにはそのような思いがあったからだ。
 しかし、席に戻ってから早くも後悔の念が押し寄せてきた。ついこないだ、この活動は正社員のものだと思ったばかりではないか。第一、わたしには荷が重すぎる。修論発表以来まともに人前で話したことなどなかった。
 前の会社で社員研修のとき、同期の前で話すときですら声が震えていたのを思い出した。あのときは自分の声が震えているのがおかしくて笑いをこらえきるのが精一杯で、何を話しているのかすら分からなくなった。
 あんな思いをするのはもう二度とごめんだ。やはりすべてを打ち明けて長原さんにお願いしてみようと決心した。
 ところが、長原に相談を持ちかけるも、森下さんを差し置いては無理、とにべもなく断られた。
「本部長もきっと森下さんのようなかわいいひとから説明された方が嬉しいと思うで」とまで言われる始末。
 だが、希美は肝心の本部長を知らないのだから、何とも言えぬ。もうこうなれば腹を括るしかないのか。いつしか希美は覚悟を決めていた。スライド作りは長原や啓大も手伝ってくれるというが、さて、何から始めたらよいものやら。希美はそのときのことを想像するだけでどきどきして、手に汗を感じた。

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