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明日へ向かって 71

「森下さん自身は、この活動を通じて、どのような感想を持ってますか」
 多喜田の質問に、希美はしばし考えてから次のように答えた。
「楽しい活動だと思います。皆さんの話も参考になるし、何より自分自身の視野が広がったような」
 そこで希美は言葉に詰まった。自分だけが楽しんでいるといった発言に気が咎めたのだ。それでは、まるで会社に来て遊んでいるみたいではないかと。しかも私は正社員ではない。もう少し会社に貢献できる可能性を含んでいる、前向きな活動であることをアピールできることはないか。そんな思いが過った。
「そうですか、そう言ってもらえると安心した」
 希美が次の言葉を躊躇している間に榎本がにこやかに言った。
「今回の活動を通じて、私自身もいろいろと考えさせられました。社外の活動もさることながら、三河製薬との合同ミーティングも貴重な経験となりました」
 多喜田が言葉を継いだ。
「そうなんだよ。何かと制約の多いこのご時勢だけど、少なくとも現場の皆さんが自由に楽しんでくれるかどうかが本当に一番大事なんだよ。今日は、そのことが確認できただけでもよかったと思うよ。ありがとう、改めて御礼を言います」
 多喜田が机に両手をついて頭を下げた。それに合わせるようにして、榎本と希美もその場で慌てて頭を下げた。
「これからも引き続きよろしくお願いします」
 多喜田はなおも丁寧なお辞儀を繰り返した。
 多喜田の振る舞いを見て、希美は風土改革活動を始めたのは多喜田の提案だったに違いないと察した。なぜなら、これまで会った誰よりも、多喜田がこの活動に対する一番のよき理解者であることが素直に感じられたからであった。
 希美は、いまや多喜田からのエールを受け取ったような心持ちにさえなった。それから、この活動に自分が関わらせてもらえたことに強い感謝の念を感じた。
 風土改革活動を通じて、一年前には想像もできないほど、希美自身の考え方や仕事への取り組み姿勢は大きく変わった。いまでも変わらず実験することは楽しかったが、いまや風土改革活動は希美にとって、いろいろと悩みの種は尽きないものの、何物にも変えがたい自分の仕事のひとつとなっていた。それは、おそらく希美のこれまでの社会人経験において、初めてのことだった。
 実験室でサイエンスに携わること、さらにそれが薬を作るという大きな仕事に繋がっていることは純粋に嬉しかった。
 だが一方で、どうしても自分でなくてはならない理由はそこにはなかった。医薬品開発という大きな事業の中で自分の果たす役割は、私の存在と同じように、ちっぽけなものでしかなかった。
 もちろんそれは仕方のないことである。仕事というものはひとりでするものではない。そもそも自分の仕事が世の中に貢献できると思ったことなどこれまで微塵もなかった。この広い世界の中で自分は何もできない空虚な存在だと思ってきた。
 それが風土改革活動に関わるようになって、少しずつ変わってきた。最初は仕事の一部として引き受けた活動ではあったが、続けていくうち、他人に心を開くことができるようになり、また相手も心を開いてくれるということを知った。
 自分の言葉で話すことを覚え、伝えることの大切さと、他人の話を聞くことの難しさを知った。それらはまだまだ小さな気付きではあったが、あたかもサビだらけの大きくて重たい鉄の扉がギイギイ音を立てながらゆっくりと開いて、扉の向こうからは光とともに新しい風が入り込んでくるようだった。
 そして何より、いまや希美は、風土改革活動は、自分の仕事だと胸を張って言うことができた。それと恥ずかしくて他人には言えないが、自分の中でそうした自信が芽生えたこと自体、希美にとってのもっとも大きな変化であった。

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