明日へ向かって　６０

　希美には、は風土改革活動を通して、様々な気づきがあった。心の中に開眼した新たな目が加わって、そこから新しい発見を見ることができた。そして何より、普段の仕事以外で一緒に活動する心強いメンバー、長原と啓大がいることも嬉しかった。製薬会社という憧れの場所で、こんな機会に自分が恵まれようとは、望外、いやあまりにも光栄すぎる喜びであった。
「来年もよろしく。よいお年を」榎本が言った。
「こちらこそ、来年もよろしくお願いします。よいお年をお迎えください」
　希美は、ぺこりとお辞儀をすると居室を後にした。更衣室で着替えを済ませると、研究所を出る前にトイレへ寄った。
　扉を開けると鼻歌が聞こえた。歌の主は、女性清掃員である。彼女の鼻歌には、微かな記憶があった。希美が入ってきたことに気づいていないのか、こちらに背中を向けたままモップで床をせっせと磨いていた。彼女も今日が仕事納めに違いない。彼女の鼻歌は、年末を迎える賛歌のように聞こえた。
「あら、お疲れ様」
　希美の存在に気付いた彼女はモップの手を止めて振り返った。薄らと額に汗を滲ませ、前髪の数本が額に貼り付いていた。彼女はやけに大柄に見えた。他の清掃員と同じ水色の作業着を着ていたが、彼女のズボンの裾は踝の上までしかなかった。太っているわけではなく背丈も特別大きいわけではなかった。大きくがっしりした手や足が彼女を逞しく見せていた。
「もうお帰り？」
　まるでいつもちょっとした会話を交わす間柄であるかのように、親しげに彼女は希美に話しかけてきた。
「そうです。今日は仕事納めです」
「そうね。私も」そう言って、彼女は額の汗をタオルで軽く押さえた。
「いい一年でしたか？」
　彼女の声はさっきの鼻歌のように軽やかだった。
「はい」
「そう、そうやって胸を張っていい一年だったと言えるのはいいことね。とくにあなたのように若いうちは」
　希美はまるで家で母親と話しているような気分になった。
「そうですね。とても恵まれているのだと思います」
「そう、来年もいい一年になるといいわね。それでは、よいお年を」
　そう言って、彼女はモップを片手にトイレの出口へと向かった。
「よいお年をお迎えください」
　希美の返事に、彼女はもう一度振り返り、モップを持っていない方の手を振ってトイレを出て行った。
　掃除が終わったばかりのトイレにひとりいると、希美はすべてを締めくくる年末に相応しい清々しい気分になれた。