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明日へ向かって 78

 啓大は夏が好きだった。Tシャツ一枚でいられる気楽さほど落ち着くものはない。
 今日も啓大は手ぶらでスタジオにやって来た。ここのところ連日スタジオに篭っていたので、ギター一式はスタジオに置きっぱなしになっていた。
 ライブのときは、スタジオからジェイの車に積み込むだけで、ここ最近ギターを担いでテクテク表を歩くことがほとんどなくなった。ありがたい限りである。
 モスキートーンのビッグイベントへの出演が急遽決まった。彼らの練習にも、より一層熱が入っていた。
 それは毎年夏に開催される野外フェスティバルであった。海外有名アーティストも多数出演する国内でもビッグスリーに入るイベントだった。
 開催を間近に控えたある日に急なアポイントの連絡が入った。それは出演を予定していたアーティストが事情によりキャンセルになったためで、その穴埋めに自分たちがあてがわれたことは明らかであったが、彼らにとってみれば理由などどうでもよかった。
 いつも客席から見ることしかなかったあの野外ステージに立てると思うだけで、興奮で身体中がゾクゾクした。
 アキラが長椅子の上でしきりに腕立て伏せをしている。おそらくこの次は、テーブルの淵に足をひっかけて腹筋をし始めるだろう。今度の野外ステージでは最初から上半身裸と決め込んでいるらしく、ブッキングが決まってからというもの、せっせと筋トレに励んでいる。それは、ステージへの逸る気持ちとすれば理解できなくもなかった。
 啓大は静岡へ行くことは、最近あまり考えないようにしていた。考え始めると憂鬱な気持ちになってしまう。何よりいま予定されている目の前のライブに集中したかったからだ。
 案の定、アキラは腹筋をし始めた。その隣でジェイが煙草の煙をくゆらせて、ただぼおっとそれを眺めていた。
 テツオはスタジオに残ったままギターと取っ組み合いをしているようである。テツオは、ほとんどの曲を専任ボーカルとしてこなしていたが、たまにギターの厚みがほしいところだけサイドを弾いてくれる。いまは、明日へ向かってのアルペジオを猛特訓中だ。
 もし、テツオのギターがもう少し上達したら、俺がいなくても何とかなるかもしれない、啓大はふとそんなことを考えた。
 おそらく彼がいなければ、モスキートーンはここまで続かなかっただろう。モスキートーンは、テツオそのものだ。いつだったか、ジェイとそんな話をしたことがあった。
 ギターの腕とソングライティングは、たしかにまだ啓大の方が上だったが、二人の差は最近縮まりつつあるように感じる。その気にさえなれば、テツオが啓大を追い抜いてしまうのも時間の問題だろう。
 音楽は芸術の世界であることはいうまでもない。玉石混淆の中からキラリと光る何かを持っている者のみが、人々の耳目を集めることができる。演奏テクニックなんて二の次である。それが証拠に、よくこんなヘタクソな演奏でデビューできたな、といったバンドなど巷にはうようよしている。
 売れるバンドがすべて正解だとは思わない。それでも、売れるには売れるに足るだけの理由はちゃんとあった。
 いまようやくモスキートーンがその中から光を放ち始めた。彼らは自分たちの音にずっと自信を持ち続けてきた。やってきたことは、昔からそんなに変わってはいないし、きっとこれからもそうだろう。しかし、彼らは次第に多くの人々から注目される何かを放ち始めていた。
 肝心の自分たちにはそれが何であるかはよく分からなかった。ただひとつだけ彼らにはっきり言えたことは、自分たちが本当にいいと思うものだけはしっかりと持ち続けてきたということだった。決して世間の流行を追わず、自分たちの芯をしっかりと捉え、それだけを忠実に守ってきたといっていい。
 突如目の前に現れた光に、彼らの目は眩んだ。あまりに急なことだったので、彼らはいま自分たちがどこにいるのかさえ分からなくなっていた。
 だが、彼らは気付いてはいなかった。これまでとは比べ物にならないほど暑い夏が、もうすぐ側にまで近づいているということを。

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