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明日へ向かって 63

「一重とお義母さんの最期を看取りながら、がんの緩和ケアというものを勉強しました。それと、ひとが自らの死を受け止めて死んでいくという時間はとても大切なことだとも知りました」
 とちを看取った後、坂野夫婦はこの六甲の地に残り、がん患者専用のホスピスを作ることを決意した。
 坂野医師の話を聞きながら、希美は、父のことを思い返していた。
 希美の父は、最期までがんとの闘病にかけた。二度に渡る摘出手術と抗がん剤治療でみるみる体は痩せ細っていき、最期は頭髪も失われた。それでもがんと闘い抜くことを決意したのは、間もなく姉由梨から生まれてくる孫に会いたい、その一心だった。
 ところがその想いも虚しく、孫の顔を見ることなく父はこの世を去って逝った。
「抗がん剤治療にはたいへんな体力と覚悟が伴います。ご存じのとおり副作用は強いため、これまで通りの生活を営むことはほぼ困難です。その上、本当に効果の得られる可能性は正直なところあまり高いとはいえません」
 これまで何百人ものがん患者を診てきた坂野医師の経験上でも、抗がん剤治療で顕著な効果が得られた例は二割にも満たない程度だという。
 それを聞いて希美は胸を締め付けられるような思いになった。父があれほど信じて受けた抗がん剤治療は、間違いだったのだろうか。
「がん患者さん本人の意思によりますが、がんと闘うよりもむしろ疼痛を十分に取り除く緩和ケアを受けることで、亡くなられるかなり直前まで普段通りの生活を続けることができます」
 そのため、とくに終末期がん患者には、治療よりも緩和ケアを進めるのだと坂野医師は語った。
「では、少しですが、病棟内を見て回りましょうか。といっても十五分とかからないでしょう。何しろ小さな施設なんで」と言い終えると、坂野医師はひとりの女性看護師を呼び出した。
 ここからは彼女が病棟を案内してくれるようである。建物は三階建てで、一階はエントランスホール兼共同作業スペースと病室二部屋があり、二階には院長室兼診察室と病室が四部屋、三階はすべて病室で五部屋あった。
 さすがに病室の中まで入ることはできなかったが、一部屋空いている病室に入らせてもらえることができた。小さな冷蔵庫とテレビもあり、窓の外には六甲の街並みを望むことができた。あまり大きな病室ではないが清潔感に溢れていた。
「ここは山を背にして建物が建てられていますので、すべての病室からこの景色が見えるんです」
 看護師が説明すると、この景色はいいですね、と皆が口を揃えて言った。
 たしかにこんなところで自分の最期を迎えられるのは幸せかもしれんな、と榎本がひとりごとのように呟いた。
 院内の見学を終えて再び四人は、院長室に戻ってきた。とはいえ、肝心の坂野医師は回診のためしばらく戻ってこられないということで、代わりに一重が応対した。
「どうでしたか?」
「窓の景色がとてもよかったです」啓大がそのように感想を述べると、
「それが当院の一番のウリですので」と一重は満足げに答えた。
「病室は快適そうですし、何より最初にここへ入ったときにもそう思いましたが、患者さんが元気そうに見えました」長原が言った。
「そうでしょう。とてもがんの患者さんには見えない方もいらっしゃるでしょう。でも、ここへいらっしゃったときは、皆さん痩せ細って来られる方ばかりなんですよ」
 抗がん剤治療の激しい副作用により真っ先に奪われるのは食欲である。点滴や胃ろうで栄養を補給することはできても、自分の口から食物を摂らなければどんどん痩せ衰えていくという。
「私もいよいよになったらこうしたところで最期を迎えたいと思いました」と榎本が言うと、お待ちしておりますわ、と一重が冗談交じりに言った。
「私の父は、十二年前にがんで亡くなりました」
 希美の一言に皆が笑いかけていた口を閉じた。

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