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担当している人たちの調子がよくなったら自分がすねた


年末年始にかけて、これまで大変だった人たち数人の調子がいい。
私が担当という以外、年齢も背景も、そして定期的な関わりをするようになった経緯も全く異なる人たちだが、不思議と似たような状況なのだ。

調子がいいというのは、時に気をつけなくてはいけないのだけど、確かに側からみても悪くない。

皆、長い期間いた渦から抜けつつある感じ。
それを本人も周囲も実感している。しかも、どの人も、今の自分に感謝し、そこに至るまで寄り添ってくれた周囲の人たちに感謝している。最近会った時、それぞれが私にも感謝の気持ちを伝えてくれた。

これは本当に嬉しいこと。
最終的に、定期的に会ってお話ししなくてもよい状況になることは支援者冥利に尽きる。同時期に何人も同じようにいい状況というのはなかなかない。だから、より一層嬉しい…

そのはずなのに…
どうしたことか、この状況が立て続いたあと、私は落ち込んだ。いい結果を得たのに、私も一支援者としてますます精進するぞ、とならなかった。

落ち込んだ、というか…よくよく自分を観察すると、言ってみれば、自分がすねたのだった。仕事とはいえ、なぜ他人に関することにばかり熱心に力を注ごうとするわけ?と。

すねる自分をキャッチするなんて過去あっただろうか?

これは自分をしっかり見ないと。
真っ先にそう思った。

でも、正直なところ、その思いと同時に、面倒くさいな、という気持ちまで出てきてしまった…

そういうことだった。

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私は自分と向き合っている。以前よりずっと。

でも、足りていなかったのだった。

だいたい、自分がすねている感覚を自覚したというのに、それに対して、面倒くさい、という気持ちまで出てきてしまっていた。

ここに気付いた時点で、ちょっとよくなかった、と反省モード。ある感情が湧いていたことに対して面倒くさいと思いそのまま放置。自分が担当している人に対してはやらないことだ。他人に対してやらないことや思いを自分にだけは抱くなんて、自分をきちんと扱っていないってことだ。

人は、他人と会う時、他人に会う自分にも会っている。
他人に見せる顔が違うということは、その数だけ違う自分の一面を、会うたびに見つけているのだ。だから、たくさんの出会いをした自分自身のメンテナンスは大切だし、面倒くさいと思う感覚や思いすらもデフォルトとして、自分と丁寧に向き合う時間が時にはしっかり必要なのだ。

確かに私は年末近くなって自分自身のメンテナンスを怠っていたかもしれない。ここnoteで書いていく以外は全くないがしろだった。自分に対して。だから自分がすねてしまった。

これは、少し前の私では気づけなかったことかもしれない。自分がすねるという感覚の捉え方がうまくなったとも言えるかもしれない。

ということは…
すねれば、自分を後回しにしてきたことに気づくだろう、という自分の中の自分の目論みは見事に成功したとも言えるかな(苦笑)

ほんの少し自分との付き合い方が上手くなった気がした。

今年は自分を丁寧に扱う時間も改めて大切にしよう。

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