不安MAXになった私を愛でる
これまでは、アウトプットをして不安が顔を出すと、従来の自分に戻り、不安を消し去っていた。
いや、消し去っていたわけではない。元々ないもの、見えてないもの、と姿を見ようともせず、無視しただけだった。
いまの私に出来ること
なんだろう?なんだろう?
そうだ、不安を受け止めることだ。これでいい、と不安MAXであろうとなんであろうと受け止めることだ。
いまの私という存在が出来ることをやろう。
そう決めていたから、気がつけば不安というゲートをくぐり抜けて前に進んでいた。
そりゃあ不安MAXだよね。今まで、同じ気持ちだよ、と寄り添ってきたんだから、という声かけをした。アウトプットをした。
そうしたら、不安は長く続かなかった。
ゲートをくぐり抜けて不安は消えた。
声かけをして気づいた。
いままで、不安を無視したということは、不安を感じた私という存在を無視していたってことだ…
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サバイバーが支援者をやるのって、思っていた以上に大変なのかもしれない。結構な年数やってきて、今さら、とどこからともなく言われそうだが、今さらそう思うことになった自分が一番驚いている。
過去苦しかった自分、自分のような苦しさを今抱える子供やかつての子供たち、そして、過去を背負いながら寄り添おうとする今の自分。たくさんの人の思いを背負っている。そして、ひとりひとりの思いに丁寧に関わろうとすればするほど、まだ出来るはず、とスキルアップする。知ろうとすればするほど、発見も荷物も扱うものが増える。
サバイバーであることで、ひとりの人としてもかなり近い距離で寄り添えるというメリットがあると感じる一方で、近いゆえの苦しさも同時に感じてきたことは確か。
そして現場では公私をきちんと分けて関わる、という枠をつくる作業へのエネルギーも必要だったから、他の人より疲れやすいという自覚はあった。そのためのケアもしてきたし、自分癒しも進めていた…つもりだった。
それでもまだ、いまの自分という存在を無視してきたってことだろうか?そう思ったら、ショックだった。自覚してメンテナンスもしてきたつもりだったのに…
つもり、つもりのオンパレード。
でも…
スキルアップすればするほど、よく見えてくるものがあるのだから、必要な癒しの深さも変わってくるのは当たり前なのかもしれない。
そう考えると、支援者としてのスキルアップと自分癒しは常にセットで、ずっと続くものと思ったほうがいいのかもしれない。
サバイバーが支援者としても人としても成長し続けるには覚悟が必要だな。
そんな思いがよぎった。
前にも覚悟はしたけど。また覚悟し直しすればいいか。
それとも、この無限ループみたいなことはやめたい??
今回アウトプットする!と決めてどうやらまた一皮むけてしまったらしい。
これも成長と呼んでいいだろうか?
ここまで言葉にして書いたらずいぶん落ち着いた。
書いている道こそ私が歩く道…の境地。
とりあえず、また歩くように書こう。
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