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本心を隠さざるを得なかったから、思考と行動が一致しないのか

かつての私はねじれていたなぁと、最近よく感じます。しかも、ねじれている自覚すらない。

ここで言うねじれとは、「思考と行動が一致していない」というイメージです。

それこそ社会人なりたての頃は、

思考:めんどくさいな
行動:一生懸命がんばる


という感じ。しかもめんどくさいと思っている自覚すらなく、「頑張りたいから頑張っている」と本気で思っていました(なんてこった!)。

振り返ると、学生時代の部活やアルバイトだって「やりたくてやっている」と信じて疑わなかったけれど、こうあらねばという名の蓋を開けると、ぶっちゃけ昼まで寝ていたい日もあったし、バイトさぼって遊んでいたい日だってあったよなぁと。

今でこそそう思うことを自然だと捉えられるけれど、当時の私は「そんなこと思っちゃいけない!」と感情が湧き出た途端に蓋をしていました。


思い込みはどう生まれる?

以前、主体性の弊害について記事を書きました(読み返すと、自分の考えがアップデートされていることに気づけて面白い)。

このときは、やりたくてやっていると思い込むのは主体性が強いからだと思っていました。流れとしてはこんな感じ↓

主体性って大事

どうせやるなら、“やらされてる”と思いながらやるより、“やりたい”と思ってやった方が自分自身楽しい

人から頼まれたことがきっかけだとしても、どこかのタイミングで「自分がやりたいからやっている」という認識にすり替わっている


でも、そもそもこの記事で私が言っている主体性って、主体性じゃなくない?と思えてきました。卵の図を再び登場させます。

【主体性の弊害】卵で考えるとこんなイメージ

この図は、本心である黄身が、白身に覆われると見えないよね、ということを表現していて、以前は白身の部分が主体性の強さによってつくられると思っていました。

でも今考えると、本心を隠さざるを得ないなにかによってつくられているのでは?と思えてきました。


私の場合、幼少期から手がかからない子でいることを考えて生きていたから、「学校に行きたくないと言わない」「やりたくないと駄々をこねない」といった感じで、母を困らせるようなことを言わない、なんなら考えないようにしていたのかもしれません。


そう思うと、冒頭で述べた「ねじれ」に納得がいきます。

黄身のままにはしておけないから、白身で覆う。でもそれを無自覚にやっていたから、黄身の存在自体を忘れてしまう

それが、無自覚なねじれの正体なのだと思います。

(卵でねじれを考えると、
白身で覆われている状態→ねじれている
黄身が見えている状態→ねじれていない
という感じかなぁ。)


無自覚なねじれの対処法

しょっちゅう言っていますが、やっぱりここでも「自分がどうしたいか」を問うことが大事そうです。

白身で覆う癖はすぐにはなくならないけれど、白身の中に黄身があるらしいということを知ったので、「実際のとこどう思ってるの?」と自分に聞く発想が生まれました。


ねじれ自体がだめなわけじゃない。いつも本心のまま生きられるわけじゃないし、状況に合わせて使い分ければいいんだと思います。

大事なのは、本心に気づけているか、無視していないかだなと。

自覚したうえで、この場ではどうするのかを決める。それができるようになりたいです。


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