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バ美肉による性に対する考え方の変化【VRの弊害】

【注意】本記事は性に関する内容を扱っています。私自身そうった知識に乏しい為、不快に感じる表現等を含んでいる場合があります。その前提をご理解頂ける方のみお読み下さい。

先日の【バ美肉した弊害】というTweetについて改めて記事としてまとめようと思う。

前提

元々、心も体も男性で肉体と精神に違和感がある認識は全くなかった。ただ、女性化願望自体はある種趣味として多少はあった。だが、女装経験がある等のレベルではなかった。そんな私に起きたバ美肉して1年経った心理的な変化について。

リアルでの違和感

男友達と休日に遊びに出かけた。VRを始めてからは忙しく、あまりがっつりリアル空間で遊ぶことはなかったので久々の友人との外出だった。ただ、この外出でいくつかの変化を感じることになる。

以上の変化に共通することは、「女性として見られたい」ということだ。「か弱い」「優柔不断」「可愛いものが好き」「少食」といった面を意識した行動が増えた。(注:あくまでこれは私の女性観であることが前提。女性が〇〇であるべきという思想は全くない)

以前は全く興味のなかった「動物の柄が入ったインテリアグッズ」が無性に可愛く思えたり、「お香」に魅力を感じたり、自分が理想とする女性が好きそうなものへの関心が高くなった。

ただ、より違和感を覚えたのは本当にその対象が欲しいと思う単純な購買的な感情だけでなく、それ以上に「これを欲しがっている自分が可愛い」というアピールの意味合いが強かったことだ。「可愛いものを好きな私可愛いでしょ?」って。男性の友人に対して女性として意識して欲しいと思っていたのだ。

「歩道側を歩きたくない」に関しても、危ないのが嫌とか怖いとかではない。「男性が女性を守るのが当然だよね」「か弱い私をちゃんと守って」という思考が働いていた。(その友人は紳士なので私に歩道側を歩かせてくれた)

ただ、性別という観点での結論は、あくまで大きな認識の変化はない。

VRで「なりたい姿」になる事は本当に幸せか?

バーチャル世界は容姿のコンプレックスを意識する必要がないので、非常に心地が良い。自己実現の場にもなる。

「だが、生活全てをバーチャルに置き換えることはできない。」

私達にはリアルの家族や友人がいて、多少の例外はあるが会社にも足を運んで行かなければいけない。どこかでリアルの姿を使い、人間関係に触れることになる。勿論その相手は自分のリアルの肉体を見て、それを前提にコミュニケーションをとる。その時に、バーチャルの精神との「乖離」が起きるのだ。

生活全てが死ぬまでバーチャルで完結するなら、「なりたい姿」になることは幸せだと言えるかもしれない。だが、バーチャルとリアルの2面を分けないといけない現状では完全に幸せを得られない。むしろ、苦しむことになるかもしれない。

ただ、人格を統合させず、あくまで一つのロールであると切り分けられている人にはこの問題は起きないと予想される。私のようにバーチャル人格に傾倒し、あくまで”バーチャルである"という認識を忘れて、「完全になりたい姿」になることを望んでしまうとこういった問題が起きるのだろう。

水槽の脳のような世界が実現すれば、この問題は起きないんだけどね。」

脳を騙すVRのリスク

私はVRの体験に魅了されていた。それが故に、何か反動があるのではないかと推測していた。まさか、1年経ってこういった形で苦しむことになるとは思わなかった。自分の脳を錯覚させるリスクはやはり存在する。

参考に似た事例でいうと、明晰夢による夢の操作もそれに該当する。私は昔、夢を操ることに挑戦し、一定の成果を得ていた。だが、突如毎日悪夢を見るようになった。本来、コントロールしてはいけない脳の活動に反抗することで弊害が出たのだと思う。

「自分を騙す、錯覚させる事の代償は少なからず存在する。」


VRとの付き合い方

あくまで、今回書いた内容はバ美肉やVR技術を否定するものでは全く無い。VRが世界に浸透していくためにも事実を問題提起したかった。自動車の普及により交通事故が起きたり、スマホが普及により歩きスマホが問題になったり、時代を変える技術には問題がつきものである。

我々はVRの可能性とともに、リスクについても並行して考えていく必要がある。それがVR普及には欠かせないことだ。この記事を読んで、VRへのより深い理解に繋がると良いなと思う。

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【更新】6/13 タイトルに誤解を招く表現があった為、修正しています。




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