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ロシア・カザン留学記3:エラブガキャンパス編

留学の後半に差し掛かると、インターンシップのためにカザンの中でも郊外のエラブガという地区に移動した。

ここには僕たちの留学先カザン連邦大学のエラブガキャンパスがある。
聞くと、カザン連邦大学というのはカザンにあったたくさんの大学が合併によって1つの大学になっているそうだ。
そのためカザンの市街地にも郊外にもたくさんのキャンパスがあるとか。

僕らがエラブガキャンパスを訪れると、カザン連邦大学の学生さんが出迎えてくれて、エラブガキャンパスの歴史を教えてくれた。
最初にカザン連邦大学を訪れたときもそうだったのだけれど、大学に最初に訪れたときにはそこにある博物館に案内されて、大学の歴史の説明を受けるというのは今回1つのお約束になっていた。

エラブガの学校の歴史

エラブガ校は、最初はあまりお金がない学校だったらしいという話から始まり、職員のコネや奨学金などを使って女性たちが勉強したり、そのうち孤児たちの教育も手掛け、卒業生が先生になるなどして今に至るという話を聞いた。

そして話は学校からエラブガの街に移った。
エラブガの街は商人の街だったそうだ。

エラブガ商人の家族について

エラブガの商人が住んでいた家の再現を見せてもらった。
彼らは2階建ての家に住んでおり、1階は店舗で2階が済むところだった。。
日本にいる時に、あえて別に店舗を持たずに自宅で商売をするのが良いビジネスモデルだという話をきいていたのを思い出した。

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この写真のようなカウンターで、水さしやカウベルのような金属製品など、たくさんの商品を売っていたようだ。

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この写真はタタールスタンの商人たち、つまりはエラブガの商人たちとロシアの商人たちを結びつける写真を見せてもらった。
日本でいうところの士農工商のような文化がこのエラブガにはあったとのこと。

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食器棚にあったお皿たち。
季節によって食器を使い分ける文化があるという話を聞き、少し日本らしさを感じた。

続いてエラブガの商人たちの家族について説明を受けた。

エラブガ商人の家族について

エラブガの商人の生活の様子を説明してもらった。

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ここは商人の奥さんが使っていた部屋である。
当然今のように女性は社会進出など出来るわけがない時代なので、妻は専業主婦だった。
子供を育てるのが1日の主な仕事だったが、フランスなど外国のベビーシッターを呼んで外国語を教えてもらう文化があったらしい。
空いている時間には服やテーブルクロスなどの刺繍をしていたとのこと。

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これは彼女たちが作った服を保存するための箱だ。
旅に出るときはこれを持って行ったらしい。

家の庭にはフルーツなどの木を植えていて食べていたのだけれど、そうした家は壊されてしまいもう残っていないのだとか。

エラブガ商人の食事の時間

次に見せてもらっのは商人の居間だった。

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商人たちは食事の時間を一番大事にしたそうだ。
スープやチキンに魚、そしてパンなどを食べていた。

食後にはリビングに行って書類を見たり楽器を弾いたりして過ごしてたらしい。

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これはピアノのように見えるけれど、ハーモニウムの言われる楽器だ。
演奏するのは難しく、通常の鍵盤に加えてレバーやペダルなどが多くある。

感想

エラブガは中心地のカザンからバスで2,3時間程度移動するかなり郊外の方にある。
カザンは都心という感じがしたが、エラブガまで来ると雰囲気も変わり、学生の雰囲気や街並みも閑散としていたり、日本でいう「田舎」のような感覚を受ける。
これは日本と同じだと感じた。
やぱり人が多く集まる都心部と地方では住んでいる人の雰囲気や街の空気のようなものが異なる。

また、訪れる場所ごとに歴史や文化を教えてもらえるのだが、少し退屈に感じた。
全く馴染みがないものを1から紹介されるのは、少しハードだった。
日本でも、来た外国人には歴史を教えてもてなすということはあると思うが、ほすとがその外国の歴史を予め勉強し、類似点や違いなどを紹介してもらえると馴染みやすいなと思った。

おまけ

ちなみにこの後僕たちは大学が所有するキャンプ地のようなところへ案内され、宿泊することになった。

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この場所は良く言えばロシアの森の奥深くにあり自然をたくさん感じられる、悪く言えば本当に山奥で何もなくて不便すぎた。



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