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ショートショート『明太子ノスタルジー』

 家の扉が開かない。困った。これから高校以来会っていなかったクラスメイトと久々に会うというのに、家から抜け出すことができない。
 そのクラスメイトとは当時、特に言葉をかわす間柄ではなかったが、いかんせん全校生徒の数が少なかったため、卒業して10年経つ今でもその顔だけは記憶の片隅に残ってしまっていた。3ヶ月前に偶然、地下鉄銀座駅のホームで再会し、
 「あー!」
 「え?久々じゃんー!」
 「えーびっくりー!全然変わってないじゃんー!」
 「ほんと!ほんと!え、今何してんのー!?」
 話題のなさを言葉尻の伸ばし棒と感嘆多めで互いに埋め合った。そんな拙い共同作業でさえ埋めることのできてしまう都会のダイヤ間隔の短さに感謝し、「今度一回飲もうね!」とお約束の締め言葉を投げ、互いに反対方向の電車へ乗り込んだ。そんな彼女と実際に飲みに行くことになったのが本日である。そんな日に扉が開かない。

 開かないといったが、ごめん、正確にいうとそれは嘘である。わずかに開くのだ。玄関の鍵は一切かかっておらず、全体重を乗せ外側へ開こうとすると1cmほどドアと枠の間に隙間ができる。さらに冷たく分厚い鉄の扉でなにか柔らかい物体を押しつぶす感覚が皮膚に伝わってくる。漫画オノマトペでいう「むにっ」あるいは「ぐにゅ」だろうか。そしてわずかに開いた隙間はすべて赤で染め上げられている。いつもは防犯用に建てられた錆びた柵とだだっ広い空、たまに毛先が傷んでいる隣人が映り込むそのドアの隙間が赤一色で完結しているのだ。この家に住んで2年が経つがこんなことは初めてであった。そして不思議とその正体に気づくのに時間はかからなかった。

 どうみても明太子だ。自身の知識と経験をフル稼働させ別の可能性も考えたが導き出された結果は同じであった。大学の時専攻した、アーバンデザイン・コミュニケーションの知識も当然駆使したが、目の前にあるものが明太子である可能性をより濃厚にしただけであった。色味・匂い・形状、どれをとっても明太子の特徴そのまま。右手の小指でそっと明太子をそぎ取ってみる。日曜の朝、自作のりんごジャムの出来栄えに恍惚とするマダムのような所作で明太子を口に運ぶ。味見する時私は人差し指より小指派。どの指にもちゃんと役割を与えてあげる平等主義者。私の小指はカプサイシンでヒリヒリと熱くなる。

 これは辛子明太子だ。驚いたことに味付けまでされている。誰が何のために。嫌がらせにもユーモアを交えたい新種のサディストだろうか。そして大の大人が全力で押しても微動だにしないことから鑑みるに相当体積の大きい辛子明太子である。ドアを押し開けるのは無理。他に外に出られる場所もない。私はひとまず炊飯器で白米を炊くことにした。炊きあがるまでの待ち時間で彼女に一報を入れる。
 「ごめん、辛子明太子に家塞がれちゃった。」
 「なにそれ、美味しそうじゃん。」
 「今日うちでもいい?せっかく店予約してもらったのにごめんね。」
 「全然いいよ。そっちのほう面白そうだし。」
 「あと炊いた白米持参して来てくれない?多分内側から渡せないからさ。」
 「おっけー。あきたこまち持ってくね。」
 なぜ当時この子と友達じゃなかったんだろう。こいつと仲良くしていたらあと2倍は青春を謳歌できていたであろうに。当時を後悔するくらい彼女は完璧でこの上ない「友人」属性だった。

 我が家の炊飯器が間抜けなメロディーを鳴らしてからわずか30分ほどで彼女は到着した。その速さも見事な「友人」だった。
 「今着いたー。相当デカいよこれ。二人で食べきれるかなー。」
 電話越しの彼女はなぜ明太子が家の前にあるか一切疑問を持たず、どう処理するかの話を続けた。
 顔も見えない、声も届かない状況で、ドア越しにLINE通話をつなぎながら私達は再開の儀を執り行った。巨大辛子明太子をつまみながら、当時実は同じ人を好きだったこと、地理の授業中教師が鼻を触った回数を正の字でカウントしていたこと、自己啓発本に絆されキャリアウーマンになろうと奮起するも半年であっさり寿退社したこと、舌をぴりりとさせながら様々な思い出話に花を咲かせた。「え!待ってこの味、ごろ屋の辛子明太子じゃない?私が一番好きなやつ!」彼女が博多フリークである新事実も知ることができた。彼女の口から溢れる記憶の一粒一粒が新鮮だった。あまり話したことのないクラスメイトという関係性のおかげで、共通の思い出と耳新しい思い出が心地良い割合で混在しており、それから2時間近く我々は伸ばし棒に頼ることなく正式に盛り上がった。

 結局辛子明太子は食べきれず、その日彼女の顔を見ることは叶わなかった。彼女はノスタルジーと好物を摂取できたことに満足し、残った辛子明太子をタッパーにぎゅうぎゅうに詰めると「ありがとう!また飲もうね!」はつらつとした声で電話越しにそう言い家路へとついた。彼女はこれを「飲み」にカウントしてくれる人種らしい。地下鉄でお決まりの共同作業をした際にはおよそ考えられなかった満足感に私は包まれていた。
 「ピロン!」通知音が鳴りLINEを開く。そこには彼女のピース自撮り写真with巨大辛子明太子(約3割消費)。その巨大さたるや、どうやらあと3日は家から出られなさそうである。はてさてどうしたものか。ふと私の頭に、当時一度も話したことのなかったバドミントン部のあの子の顔が浮かぶ。すぐさま随分下に埋もれた同窓会のグループLINEを掘り出し目当ての個人LINEへと辿りつく。
 「久しぶり!今度うちで飲まない!?」薬指でLINEの送信ボタンを押した。

わざわざ読んでいただいてありがとうございます。 あなたに読んでいただけただけで明日少し幸せに生きられます。