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noblesse oblige~高貴なる義務~(グリュンネ少佐生誕記念18.11.2019)

高貴なる義務を一部の者による孤独な戦いにしてはなりません!
人類が一丸となって果たすものとしなくてはならないのです!
『ノーブルウィッチーズ 第506統合戦闘航空団』第3巻「épisode 17 ノーブルウィッチーズ」de181

彼女のこの言葉は、「高貴さ」ということについて新たな見方をさせてくれる。

“ノブレス・オブリッジ”ー“高貴なる者の義務”
権力や富、そして名声ー
それらを持つ高貴なる者
彼らにはその生まれゆえ多くの義務が伴う。
『ノーブルウィッチーズ 第506統合戦闘航空団』 第1巻「épisode 1 私が華族のお嬢様?」p1

この「高貴なる義務を背負ったウィッチたちの新たな部隊(前掲書 p2)」、ノーブルウィッチーズ。

その名誉隊長ロザリー・ド・エムリコート・ド・グリュンネ少佐。

彼女の誕生日の今日、「高貴さ」ないし「上」に立つ者のあり方について考えてみたい。

「一緒に悩んでくれる」

僕はノーブルウィッチーズをコミックでしか読んだことがないけれど、「ストライクウィッチーズ(ストパン)」シリーズの他のエピソードとは違い、ネウロイとの戦闘とうよりは人間同士の政治やサスペンスの色合いが強い異色作だ。

主人公達506JFW「ノーブルウィッチーズ」は解放されたばかりのガリアを防衛するため新設された部隊で、ガリア復興のシンボルにするという政治的思惑から当初は欧州の貴族出身のウィッチのみで構成されるはずだったが、共に対ネウロイ戦争に参加しているリベリオン(アメリカ合衆国)の立場を尊重する必要から、そこからのウィッチも参加させた混成部隊となっており、同じ隊内でも欧州貴族のAチームとリベリオンのBチームの二つに分かれていて、駐屯する基地すら別々になっている。

その分裂状態の506をまとめあげる名誉隊長が、グリュンネ少佐である。
「名誉」と付くのは戦傷のため一度は後方に下がった身だからでもあり、A、Bそれぞれの戦闘隊長の上に立つという意味でもありそうだ。ちなみに彼女自身は貴族出身で、Aチームのセダン基地に常駐している。

歴戦の勇士だが、貴族の令嬢らしく柔和な少女だ。
そしてA、Bチーム間の小競り合いを初めとした数々のトラブルの後始末をいつもしている苦労人でもある。

一見すると頼りない。
貴族的な自負心のAチーム、自己主張の強いリベリアンのBチーム、両者を御しながら牽引するリーダーシップがありそうには見えない。

しかしロザリーには、仲間達を惹き付ける魅力が確かにある。
表現しづらいのだが、例えば「一緒に悩んでくれる」スキルとでも言おうか。
「参加させる」スキルと言い換えてもいいかも知れない。

今はここを自分の居場所だと思っている。
そう思わせたのは少佐 あなたがいたからだ。
部下と一緒になって悩んでくれるあなたが。
『ノーブルウィッチーズ』第1巻
「épisode 2 夜間飛行」p93

Aチーム所属のヴィスコンティ大尉のこの台詞はその意味では興味深い。

部下と一緒になって悩んでくれる。

普通こう聞くと「部下の悩み」を聞いて共に悩んでくれるのかと思う。
もちろん隊長である以上そうするのは当然だ。

しかし、その「逆」を自然にできる上官はなかなかいないのではないか。

ヴィスコンティのこの台詞が発せられたシーンを簡単に説明しよう。

入隊したばかりの主人公黒田中尉と、Aチーム戦闘隊長ヴィトゲンシュタイン大尉(通称「姫様」)が夜間哨戒中ロストする。
どうやらネウロイと遭遇した可能性が高い。
危機を前にしたロザリーは残りのAチームメンバーを隊長室に呼び出し、状況を説明する。
動揺を隠せないまま、自分は隊長の器でないと弱音すら吐き始めるロザリーに放ったのが、上記の台詞だ。

その会話の流れからすると、「部下と一緒になって悩んでくれる」とは、「隊長自身」の悩みを部下にシェアしてくれることでもあるのではないかと思い至る。

事実グリュンネ少佐は、この一件に限定しないでも、部下を自分自身、ひいては隊全体の事案に参加させるのが非常に上手い。
「一緒になって悩ませてくれる」のだ。
それもある程度まではナチュラルに、ある程度からは思惑通りに。

この夜間哨戒中の事故では、自身の隊長としての悩みを告白することで部下に「一緒に悩ませ」た。
セダン基地爆破直後の格納庫前での整備主任とのやり取りでは、「いざとなったら私も出ます」と覚悟を打ち明けることで、彼の士気を上げることに成功した。(第2巻p24)

例えばこれは、本家ウィッチーズ隊ともいうべき501JFW「ストライクウィッチーズ」の隊長ミーナ中佐とは対照的とも言える。
僕はミーナのファンだけれど、彼女の唯一最大の欠点は「独りで抱え込み過ぎる」ことだと思っていて、自分の悩みに部下を巻き込むことはまずしない。
むしろ時に過保護に思われるほど、部下を余計なノイズから遮断しようとする。

ブリタニア時代を描いた『ストライクウィッチーズ』アニメ第一期第8話では、隊員が男性スタッフと必要以上に接触するのを固く禁じていた。自分が恋人を戦争で亡くした経験から、男性スタッフと恋愛関係になった後恋人を失うという辛さを、隊員に味わわせたくなかったようだ。

同じく第一期の後半では、ネウロイの正体について調査を進めながら詳細を部下に打ち明けない姿が描かれる。坂本少佐の「異変」に気付き出撃を止めるのも、あくまで独りで行おうとする。

ネウロイの正体に関するやり取りでは、第10話で宮藤軍曹を命令違反の件で査問した際の態度も印象的だ。
形式的には問いを発しながら、実は一方通行の会話。
そこには懲罰が一番軽くなる「ルート」に宮藤の回答を誘導(「ロック」ですらある)する意図もあれば、余計な詮索をリジェクトする意志も見受けられる。

こういう非常の際の「ママゴン」振りというか、「グレートマザー」的なところ(?)はミーナがストライクウィッチーズの「お母さん」役と言われる由縁でもあり、なんなら「中の人」つながりで「Fate」シリーズの殺生院キアラの異質な「愛」にも縁付くかも知れない。

少し脱線したが、同じ隊長職でありながら、この二人はリーダーシップの性質がかなり異なっている。
それはひいては部隊自体の気質とも関わっていて、一方は「お母さん」(と「お父さん」)が切り盛りする「家族」になり、もう一方は「議長」「世話役」が運営する社交クラブのようになるのだろう。

自分の悩みをある程度打ち明けて、それを部下にも我がことと捉えてもらう。
頼りなく見えるロザリーのこのコミュニケーションスタイルも、リーダーシップのひとつの形なのだ。

高貴なる義務を一部の者による孤独な戦いにしてはなりません!

以上のことを踏まえて、冒頭に引用した、506部隊正式発足式でのグリュンネ少佐の演説をもう一度、今後は全文を見てみよう。

ですがー
“高貴である”とはどういうことなのでしょう?
ある方々にとってそれは血筋によって示されるものかも知れません。
また代々所有する土地の広さや、莫大な資産がその証明になると主張される方もおられるでしょう。
それとも上院に議席を持つことが高貴なる証でしょうか?
内閣の一員であり続けることは?
私は貴族の家に生まれました。
この部隊の半数の隊員もそうです。
ですがたまたまその家に生まれたことと高貴であることは関係ありません。
私ーいえ私たちは行いの中に尊さを、高貴さを見いだします。
焼け野原となった畑にくじけずに種をまく農夫たちの中に、
戦火から必死に子供を守ろうとする母の中に、
瓦礫の中から見知らぬ人々を助け出そうとする雑貨店員の中に、
敵地に向かった夫に代わり工場で働きバスのハンドルを握る妻たちの中に、
空襲の最中防空壕で妹を元気づける幼い少年の中にこそ、
高貴さは宿るのです!
私たちはそうした人々と手を取り、ともに歩みたいと考えます!
高貴なる義務を一部の者による孤独な戦いにしてはなりません!
人類が一丸となって果たすものとしなくてはならないのです!
『ノーブルウィッチーズ 第506統合戦闘航空団』
第3巻「épisode 17 ノーブルウィッチーズ」p176-181

ロザリーの隊長としての振る舞い、「部下に一緒に悩んでもらい、隊全体のことを我がことと捉えてもらう」スタイルがより普遍化されている、と見るのは穿ち過ぎだろうか。
「高貴なる義務」は「人類一丸となって」果たすものだ。
つまり「一部の者」に独占されるべきでなく、いわゆる「庶民」の手によっても、果たされなければならない、と。

1933年3月23日、ドイツの国会である法律が制定された。

民族および帝国から苦難を除去するための法律(Gesetz zur Behebung der Not von Volk und Reich)。

なんとも御大層で、ご立派な法律に聞こえる。

しかし「民族および帝国から苦難を除去する」主体は誰か?
それは除去してもらう民や国ではない。
この法律を作った立法府であり、この法律を運用する行政府と考えるべきだろう。
大雑把に言えば、政権与党だ。

そして当時の国会の第一党は、国家社会主義ドイツ労働者党と言った。
俗称、ナチス。

そう、この法律はナチスによる独裁を可能にしてしまった、「全権委任法」なのだ。

「高貴なる義務」とは本来、貴族や富豪など、「恵まれた選良」が果たすべき社会的責務を言う。
noble「高貴な」という言葉自体、古代ローマの徴兵制の中で、資産のある市民がより多くの兵力を負担する義務を負っていたことから来ているのだ。

しかし多くの義務を果たすことは、対価として多くの権利を行使してもよいと目されやすい。
結果として、特権階級による寡頭政に傾きがちだ。

ロザリーの演説の素晴らしいところは、「高貴なる義務」をいわゆる「庶民」にも解放することで、特権階級の存在意義を無化し、同時に「庶民」にも自分のことにだけでなく全体のこと、少なくとも隣人のことまでは考えさせることで、復興したばかりのガリアに健全な民主主義の社会を築き上げようと指向する点だ。

それこそが、ガリア復興のシンボルたる506の、あるべき姿と考えたのだろう。

高貴なる義務を一部の者による孤独な戦いにしてはなりません!

この言葉に込められた二重の意味を、現代に生きる僕らも大事にしていきたい。

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